出上海記(日本語訳)

2025-12-20 - 読み終える時間: 139 分 🌐 In English 🌐 中文版

原作(2022年)は中国語。和訳:ChatGPT

上海ジョーク

 2022年春、ウクライナ戦争の勃発以降、多くの地域が戦火に巻き込まれ、生活物資が不足した。ロシア国内でも制裁の影響で輸出入貿易が滞り、一部の物資が欠乏する事態となった。次の選択肢のうち、飢餓が最も深刻なのはどこか?

  • A、キーウ
  • B、マリウポリ
  • C、モスクワ
  • D、上海

 2022年以前の長い期間、上海が国際的大都市であるという事実を否定する人はいなかった。外国資本は続々と流れ込み、国内の求職者はこぞって集まり、みんなを明るい未来が待っているかのようだった(我们都有光明的未来)[1]。さらに多くの人は、上海を中国国内の都市の中でも、文明的で、法治が行き届き、規律を重んじ、人文的配慮に富んだ模範生だと考えていた。実のところ、上海に来て最初の数か月の私は、高純度の「精滬分子(精神的な上海人)」[2]になっていたほどだ。「上海人がよそ者を見下すのには、それなりの理由がある」——当時の私の上海観は、それほどまでに強烈だった。

 しかし2022年4月になると、私は必死に上海から逃げ出す方法を考え始めた。かつてこの街をどれほど愛していたか、その分だけ、今はどれほど離れたくなっているかということだ。私は将来またここに戻ってくるのだろうか? それは分からない。確かなのは、上海が人に困ることは決してないということだ。今どれだけ多くの人が逃げ出しても、将来さらに多くの人が流れ込んでくるだろう。ただ、その中に私が含まれるかどうかは、今の私には予想もつかない。

 ここで私は、皆さんに上海脱出という魔幻(ファンタジー)的な旅を共有したいと思う。ただしその前に、まずは「逃滬(上海脱出)」という「学問」がどのように発展してきたのかを整理しておこう。——

[1] みんなを明るい未来が待っている(我们都有光明的未来)とは、中国の小学校の国語教科書にある例文。意訳は以下だ。「佐藤くんは東京大学に進学している。田中くんは工業高校に入学している。鈴木さんは地元のデパートでレジ係をしている。みんなを明るい未来が待っている。」建前上は決して間違ってはいないが、現実的には建前ほど正しくないこの内容は、中国のネット界隈で長きにわたり自嘲のネタとなっている。

[2] 精神的な上海人略して精滬とは、上海出身者ではないものの上海の価値観に同調し、あたかも自分が上海という偉大な都市の一員であると自認(うぬぼ)れている人のことを皮肉って言う語。滬(こ)は上海の略称。元々は中国国内の反日派が日本に好意的な中国人を「精神的に日本人」(精日)と罵倒する語がその始まりで、それから色々な変種が派生されてきた。精港(香港)、精台、精韓、精米などがある。玄米やお米券とは関係ない。

逃滬年代

上海ジョーク

張(やまだ) 三(たろう)がデマを流布した罪で警察に逮捕された。

張三:「なぜだ? 上海がもうすぐ7日間封鎖されるって言っただけじゃないか。どこがデマなんだ?」

警察:「上海はもう50日も60日も封鎖されてる。これをデマと言わずして何だ?

(以下、特記なき日付はすべて2022年を指す)

暗黒紀元

 4月5日〜5月1日。

 どれほど多くの若く純粋な(too young, too simple)上海市民が政府の流す公式デマを信じ、4月5日の封鎖解除に非現実的な幻想を抱いていたことだろう。彼らは1週間分の食料と日用品しか買い溜めず、待っていたのは果てしない封鎖と、突然の鉄格子生活だった。4月2日の夜に流れてきた「明日のPCR検査(核酸检测)はいったん中止。昨日の結果があまり良くないので、まずは各自自宅で抗原検査を」という通知に、私は危険な匂いを感じ取ったが、時すでに遅しだった。案の定、約束された4月5日は静かに過ぎ去り、現実世界には何の波紋も残さなかった。自称専門家たちは次々と人々に小さな希望を与え続けた。「4月中旬」「4月末」「5月中旬」、そして最後には「6月に正常な生産・生活秩序を回復」。だが記事をよく読めば、6月下旬も6月に含まれるのだと分かる。悪意ある噂話も人々の生活に彩りを添えた。「孫春蘭[3]が自分の側近で地元の人間をすべて入れ替えた。手柄は自分が取り、責任は地元が背負う」——すると翌日、本当に「健康クラウド」が停止され、「随申弁」PCRコードに切り替えられた[4]。実際に起きた出来事だけに、この噂の真偽はますます分からなくなった。その後に出てきたアルファ変種——「孫春蘭と李強[5]が権力闘争をして、李強が勝ったから明日健康クラウドが復活する」——は結局実現しなかった。市政府ビルの盗聴器がオミクロン変種に感染して聴力が落ちたのかもしれないし、そもそも噂など存在せず、私が単に「2万人に宝くじ予想をばら撒き、半分をふるい落とす」という古典的詐欺[6]の中で、たまたま第二ラウンドで脱落した一人だっただけかもしれない。

 この時期、私はかろうじて仕事の効率を保っていた。サボりながらではあったが、それでも新機能を一つ二つ作り上げることはできた。しかしこの状態は長く続かなかった。そもそも私が上海に来たのは進学準備のためであり、入学日が近づくにつれ、他の人の上海脱出の体験談を目にした私は、ついに居ても立ってもいられなくなった。

[3] 孫春蘭(そん・しゅんらん、孙春兰)、当時の中国国家副総理。

[4] 「健康クラウド(健康云)」は上海のご当地WeChatミニプログラム(微信小程序)で、医療・衛生関連のサービスを統合している。封鎖初期、市民はここで情報を入力して「PCRコード(核酸码)」を取得し、検査時に読み取ってもらって自分の情報を入力していた。「随申弁(ずいしんべん、随申办)」は別のご当地アプリで、上海の「健康コード(健康码)」はここから取得・提示する。申(しん)は上海のもう一つの略称。4月中旬、「随申弁」に突然PCRコード機能が追加され、「健康クラウド」は使用停止となった。実務的には、毎回新しいコードを申請しなければならなかった健康クラウドより、1回の申請で1か月使える随申弁の方が便利だった。なぜ1か月なのかは皆目見当つかないが、もしかすると彼らは1か月あれば必ずコロナゼロにできると思っていたのだろうね。

[5] 李強(り・きょう、李强)、当時の上海市長。

[6] この詐欺は英語でボールティモアの証券代行人詐欺(Baltimore Stockbroker scam)と呼ばれる。手口は以下だ:まず2万人にサッカー試合の予想を送る。1万人には「中国が勝つ」、もう1万人には「北朝鮮が勝つ」と送る。結果、中国が勝てば、外れた1万人は無視し、当たった1万人をさらに半分に分けて、5千人に「中国が勝つ」、5千人に「ベトナムが勝つ」。結果、ベトナムが勝てば、外れた5千人は無視して……これを数回繰り返すと、最後に残った数百人の中には「この人は未来が見える」と信じる者が出てくる。もっとも、この噂がこの詐欺の実践だった可能性は低い。なぜなら私は公開チャンネルで何度も転載されたスクリーンショットを見ただけで、直接の受信者ではなかった。

啓蒙紀元

 5月1日〜5月17日。

 連休中は数日間ゲームに没頭し、頭を空っぽにできたが、休みが終わると出勤の憂鬱がまた押し寄せてきた。この頃、極めて限定的ながら「正常な生産・生活秩序」が一部回復したように見えた。

海底撈火鍋一部店舗でデリバリーサービス開始

画像:5月3日海底撈火鍋[7]から受けた、一部店舗でデリバリーサービス開始を宣伝するショートメッセージ。

「情熱を裏切らず、陽射しが再び地上に訪れるのを静かに待とう! 上海一部店舗でデリバリーサービス開始。WeChatミニプログラムで検索もしくはリンクをクリックして注文。家でもホットポットだ! TDを返信して送信停止」

図0 「陽光万里を静かに待つ」

 5月上旬、私は上海脱出に成功した人たちの体験談をいくつか目にしたが、当初はそれほど気にも留めなかった。ところが5月11日、次の記事を読んだことで状況が変わった。

上海から逃げる?最新版・上海脱出マニュアル登場!

作者:実用派 出典:上海文芸青年

(このリンクはアーカイブで、原文は作者により削除済み。直接開くと文字のみ表示され、Telegramアプリで開くと画像が見られる)

 この記事は非常に詳細で、内容もリアルで、私がすでに知っていた情報とも一致していた。私はすぐに自分の状況に照らして情報を整理し、不明点は電話で問い合わせた。その間にもネット上では脱出成功のニュースや、新聞紙の記事が次々と現れ、どれも心をかき立てられたが、実務的な助けという点ではこの一篇に及ばなかった。これらの記事や、居委会[8]、市民ホットラインなどから自分で聞き集めた情報を総合すると、上海脱出は「可能ではあるが、完全に可能というわけではない」と感じられた。この勃起しているのに射精せない、じゃなくて、生か死か分からない中途半端な感覚に私は耐えられず、会社の上司と2時間半に及ぶ徹夜の話し合いを経て、5月13日に正式に退職し、フルタイムの「逃滬研究者」となった。

上海脱出情報整理のスクショ

図1 自分で集めた上海脱出情報の整理

[7] 海底撈火鍋とは、大手ホットポット料理チェーン店の名前。やや高額だがサービスが非常に丁寧だということが評判になっている。

[8] 居委会とは、居民委員会の略で、町内会のような自治組織に見せかけた政府の手先。

暴騰紀元

 5月17日〜現在(5月末)。

 報道によれば、5月17日には上海虹橋駅[9]から上海を離れる人数が、それまでの1日あたり1000人から一気に7000人に跳ね上がったという。切符は取りにくいが、それは相変わらずで、さらに難しいのはタクシーだった。5月11日、大衆タクシー[10]の予約ホットライン(021-96822)に電話したところ、すぐに繋がり、快く予約可能と言われたが、その時は切符も外出証もなかったので、確認だけして切った。5月17日に再びかけた時は、午前11時から午後5時半までかけ続け、ようやく一度繋がった(その間に「今月の通話料が20元を超えました」というSMSも届いた)が、結局予約はできなかった。この現象は、上海脱出を試み、切符や外出証を手に入れられた人の増加をよく物語っていると思う。列車の本数も明らかに増え、現在(5月23日)では上海〜南京間は1日20本前後に増便され、一部の列車はキャンセル待ちなしで購入できる。

 「高徳地図」[11]で虹橋空港[12]周辺を見ると、「虹橋空港情報助け合い」というグループがあり、さまざまな情報が共有されているが、全体としては質問の方が経験共有より多い。脱出者が増えるにつれ、一部の人々のメンタルの問題も次第に表面化してきた……

恋がしたい

画像:「虹橋空港情報助け合い」グループチャットの画像。とある人は恋がしたくて、その女の子の家で一緒に自宅隔離したいと宣う。他の人たちはその人に一刻も早く精神科もしくは神経科医に診てもらうことを推奨している。

図2 恋がしたい。君の家で隔離しよう!

[9] 上海虹橋(こうきょう)駅は上海の新幹線の玄関口。全国各地と結ぶ新幹線列車が発着している。

[10] 大衆タクシーとは、上海の主要タクシー会社の一つ。

[11] 高徳地図とは、中国のグーグルマップのようなもの。

[12] 虹橋空港は上海2大空港の一つで、国内線の便が充実している。新幹線の駅とほぼ直結している。

未来紀元

 複数の報道で、取材された者は口を揃えて「今日の問題は、明日には存在しないかもしれない」と語っていた。5月16日に買えなかった切符が、5月17日には買えるかもしれない。5月15日に団地を出られなかったのが、5月16日には出られるかもしれない。橋の下で一夜を明かしたあの夜、湖北・武漢や山東・済南では、地元住民ではない人も無料の隔離検疫が可能だと聞いたが、今では状況が変わっているようだ。いずれにせよ、私はすでに逃げ出した身であり、これ以上実務的な逃滬情報を追うことはない。数日前までは「虹橋空港情報助け合い」グループで同病相憐れむ仲間たちに経験を共有していたが、今ではそれも怖くてできない——私の知っている情報が、まだ正しいとは限らないからだ。

 未来は不確実性に満ちている。駅に入るためのPCR陰性証明が48時間以内でなければならないのと同様、上海脱出の情報も必ず最新のものを基準にし、できれば自分で電話確認するべきだ。

X日内PCR陰性

画像:「随申弁 健康コード」の画像。下の方には、この人には遡って5日以内からのPCR陰性結果を持っていることを示している。

図3 現代人類の消費期限

難民実録

5月18日以前・上海

上海ジョーク

上海のある小学校のオンライン授業で、先生が子どもたちにこう言った。

「みんな心配しなくていいよ。上海は国際的大都市で、防疫の模範生。全国が私たちを支援してくれていて、物資は十分、医療保障も万全です」

すると子どもたちは口々に喜んで言った。

やったー! 『上海』に行きたい!!

切符に狂う

 上海と南京を頻繁に往復する人なら誰でも知っているが、上海―南京間の列車切符など、幼稚園児でも買えるほど簡単なものだ。380km/h仕様の京滬高速鉄道[13]、300km/h仕様の滬寧都市間鉄道[14]、そして毎朝きっちり遅延する緑色の直通特急列車群[15]——これらが合わさって毎日100本以上の選択肢を構成している。ところが上海が封鎖されると、選択肢は一気に2本(その後5本まで回復)にまで減り、しかもいずれも「上海始発・南京終着」の列車ではなく、つまり長区間乗客に配慮した短区間販売の制限に引っかかる列車ばかりだった。

 私が初めて切符を調べたのは5月11日ごろだった。5日間の発売期間内で、ほとんどの列車はすでに「候補(キャンセル待ち)列」すら満員の状態だった(単なる売り切れではなく、「候補列満員」、つまりキャンセル待ちに並ぶことすらできない)。わずかに候補枠が残っている列車もあったが、当時はまだ団地の外出証をもらっていなかったため、購入には踏み切れなかった。

 5月16日、二度目の確認。上海虹橋駅は午後1時半に5月20日分の切符を放出する。私は13:29:59にパソコンで更新ボタンを連打していたが、スマホの方の画面の表示は「13:30発売開始」から一瞬で次のように変わった。

ビジネス:候補 一等:候補 二等:候補

 これほど過酷な条件の中、結局私は自力で切符を取ることはできなかった。その後、私と母は相次いで携程旅行[16]や智行火車票[17]の自動予約・争奪サービスを使い、「あとは運任せだな」と思っていた。すると翌日(5月17日)朝9時過ぎ、母から電話があり、「5月19日の切符が取れたよ。一等車」と告げられた。

切符

画像:上海虹橋駅から南京南駅[18]への切符。5月19日16:36発、一等席。

図4 切符

 ここで一つ、私なりの理論がある。通常、南京と上海を行き来する際、ある列車で二等席が売り切れていても一等席が残っていれば、多くの人は時間の近い別の列車の二等席を選ぶ。つまり、普段は一等席を買う人は二等席よりずっと少ない。しかし今は逆だ。南京から上海へ行く必要がある中で、ある列車の二等席が売り切れていて一等席が残っていれば、多くの人は追加料金を払ってでも一等席を奪いにいく。そのため、一等席を買う人の数は、二等席とそれほど変わらなくなる。ところが一等席の絶対数は二等席よりずっと少ない。結果として、今は一等席の方が必ずしも取りやすいとは言えないのではないか——という理論だ。この理論が正しいかどうか、もし違うならどこに問題があるのか、ぜひ皆さんに分析してほしい。

 私は比較的幸運で、そこまで苦労せずに切符を手に入れられた部類だが、誰もが同じ幸運に恵まれるわけではない。駅へ向かう途中や待合室で耳にした断片的な会話から察するに、多くの人はダフ屋(黄牛)から切符を買っていた。私は今のダフ屋産業や、本人氏名記載有の電子切符を具体的にどんな手口で操作しているのかはよく知らないが、他の人の横で聞いた上乗せ額は300元から2000元までさまざまだった(智行火車票の加速サービスも課金はあるが、ここまで法外ではない)。上海―南京の二等席はもともと150元もしないのに、今回ダフ屋は大儲けだ。

 別の人たち、たとえば私と同時期に上海脱出を試みていた二人の同郷者は、5月17日の夜にスマホを眺めていたら突然大量に切符が放出されているのに気づき、そのまま購入したという。彼らは私より遅いタイミングで、私と同じ列車の切符を手に入れた。これはまさに、「待つことの勝利」と言わざるを得ない。

[13] 京滬高速鉄道は中国でもっとも重要な新幹線線路の一つで、北京と上海という二大都市を結んでおり、南京を経由している。現在、定期旅客列車の時速が350km/hと、一番速い新幹線線路の一つでもある。

[14] 滬寧都市間鉄道はもう一つの南京と上海を結ぶ新幹線線路。寧(ねい)は南京の略称。余談だが、この2つの都市の間は経済活発地帯で、複々々線(上下線合わせて8本)の鉄道線路があり、それでも足りないときもある。

[15] 「緑皮車」とは昔、中国国鉄が運行する鈍行列車の愛称だが、現在はすべての在来線列車(特急含む)を指す。

[16] 携程旅行とは、総合旅行サービスを提供するスマホアプリ。

[17] 智行火車票とは、鉄道乗車券の競争購入に偏った総合旅行サービスアプリ。

[18] 南京南駅は南京の新幹線の玄関口。

出国ビザ

 あらゆる上海脱出ガイドや報道に必ず登場するのが、二種類の証明書だ。一つは「受入証明」、もう一つは「離滬(上海から離れる)証明」である。前者は目的地(実家側)の居委会が発行するもので、「帰ってきたら受け入れる人がいる」ことを証明する。後者は出発地(上海の現住所)の居委会が発行し、「上海を離れ、封鎖解除前には二度と戻らない」ことを証明する。一部の出発地の居委会では、前者を確認してからでないと後者を発行しない場合もある(外国のビザ申請時に、大使館が本国または現在地国での居留資格を求めるのと似ている。入国後にパスポートを破って闇に消えるリスクを下げるためだ)。

 受入証明については、南京では発行していない。これは前述の記事にも書かれていたことで、私が居委会に電話して確認したところ、「上からの指示だ」とのことだった。一方、離滬証明についても、5月11日に初めて居委会へ問い合わせた時点では発行不可だった。彼らの原文はこうだ。「今出せるのは、指定病院へ直行直帰で通院するための外出証だけです。どうしても急用で出るなら、備考欄に書いてあげることはできますが、途中で警察が止めるかどうか[19]までは、こちらでは管轄できません」。まあ、間違いなく止められるだろうと思った。

 5月16日、朝にPCR検査を終えたあと、再び居委会に電話をかけた。すると今度は驚くほどあっさりした返事だった。「ちょうど今、通達が来たところです。出るならそのまま来て外出証を作れます」。まるで制限条件は何もなくなったようだった。私は勢いで動かず、5月17日に列車の切符を買ってから居委会へ行った。彼らはまず、自家用車か公共交通機関かを尋ね、私が「列車です」と答えると、「もう切符は買ってある?」と聞いてきた。もし「まだです」と答えていたら、発行してもらえたのかどうかは分からない。目的地の受入証明についても触れられたが、「南京では出してくれていない」と伝えると、特に気にも留めず、「帰った先で誰かが受け入れてくれればいい」と一言言っただけだった。続いて身分証[20]のコピーをとり、外出証の用紙を持ってきて、記入してくれと求められた。

外出証

画像:印刷・押印されたA4サイズの用紙二枚。私はここで署名して、上海を離れて封鎖解除前には二度と戻らないことを宣誓した。書類の題名は、「離滬帰郷誓約書」と「公共交通離滬証明」だった。

図5 滬国の出国ビザ

 外出証は2枚ある。1枚目は「公共交通離滬証明」で、氏名、身分証番号、事由、目的地、列車番号・日付・時刻、連絡先、署名が記載される。もう1枚は「離滬帰郷誓約書」で、氏名、身分証番号、連絡先、現住所、PCR検査日、事由、目的地、出発日、交通手段に加え、「外出期間中は二点一線[21]を厳守し、個人防護を徹底します。万一良からぬ結果を招いた場合は、本人が相応の責任を負います」という文言と署名がある。いずれも2部ずつ作成され、居委会の印が押される。

 なお、「公共交通離滬証明」には「本証明は出発時刻の6時間前から有効」と記されているが、居委会の説明では「これは統一テンプレートで、うちでは行きたければいつでも行っていい(戻ってさえこなければ)」とのことだった。そのため私は、実際には出発時刻の20時間以上前に団地を出たが、何の阻止も受けなかった。同時期に上海脱出をしていた別の同郷者は、彼女の団地では離滬証明が1枚しか発行されなかったと言っていた(どちらだったかは覚えていないが、私の2枚のうちのどれかと同じ内容だった)。この「統一テンプレート」が、いったいどの範囲で統一されているのかは、正直よく分からない。

 この離沪証明の効力範囲となると、私個人としては「団地を出るところまで」だと思っている。当初は、道中の検問すべてでこの証明をチェックされたと思っていたが、よく考えると、毎回こちらから差し出していただけで、出さなければ本当に確認されたかどうかは分からない。なお、「虹橋駅で列車に乗る際に、離滬証明や受入証明が必要だ」という話については、完全なデマである。最後の検問を抜けて虹橋駅周辺に到着して以降、この2枚の証明書を使う場面は一度もなかった。

[19] 当時の上海では、主要な快速道路、行政区境界、高架道路や高速道路の出入口などに警察の検問が設けられ、通行証の確認が行われていた。

[20] 身分証とは、居住地の公安局が発行する全国統一の書類で、普段の身分証明に大体これが使われる。本人氏名記載有の電子切符を持って新幹線に乗車するときにも提示しなければならない。

[21] 二点一線とは、変に回り道せず、目的地へ直行すること。出発地と到着地の「二点」の間を直線で結ぶ意味。

需要と供給

 先ほど触れた大衆タクシーのホットライン021-96822。これも例の「最新版・上海脱出マニュアル」で知ったものだ。話によれば、これは大衆タクシー会社が5月上旬から開設した、上海離脱者専用の回線らしい。実際その通りで、5月11日に初めて電話して問い合わせた際、相手から提示された目的地は「駅」と「空港」の2つだけだった。どこかのニュースで見た話では、彼らが投入している輸送力は全部で100台あまりのタクシーだったという。この数は5月11日の時点では、まだ何とか足りていたのかもしれないが、5月17日になると完全に手不足だった。私はその日の朝、居委会で「離滬証明」をもらって戻るや否や電話をかけ始めたが、返ってくるのは延々とこのアナウンスだけだった。

 「現在、オペレーターは混み合っています。引き続きお待ちになる場合は1を、終了する場合は電話をお切りください」

 このホットラインの自動応答システムは、私がこれまで見た中で最も融通の利かないものだった(ボタン操作ではなく、直接しゃべってロボットに認識させるタイプの糞システムを除けば、だが)。普通なら、オペレーターに繋がらない場合は音楽を流し続けるか、「混み合っていますが待ちますか?」と一度だけ聞いてきて、待つを選べばそのまま音楽が流れ続ける。ところがこの回線は違う。何度も何度も「オペレーターは混み合っています」と告げ、そのたびに「1」を押させる。「1」を押し終わると、たまに音楽が流れることもあるが、多くの場合は即座にまた「混み合っています」に戻る。こうして私は、午後いっぱい「1」を押し続けるという、リズムゲームのような時間を過ごすことになった。

「現在オペレーターは混み合っています(1)引き続きお待ちにな——ただいまオペレーターにお繋ぎします、しばらくお待ちください……現在オペレーター(1)は混み合っています——ただいまオペレーターにお繋ぎします……(1)現在オペレーター——ただいまオペレーターにお繋ぎします……(1)現在オペレーター——ただいまオペレーターにお繋ぎします……(1)(音楽20秒、私の1は無駄打ち)現在オペレーターは混み合っています(1)引き続きお待ちに——ただいまオペレーターにお繋ぎします……」

 それだけではない。「1」を押しすぎると、電話が強制的に切られてしまうこともあった。これで待ち順がリセットされるのではないかと、私は強く疑っている。その最中、「今月の通話料が20元を超えました」というSMSが届き、慌てて国内通話の追加パックを購入し、また電話をかけ続けた。そうしてようやく、夕方5時過ぎに初めて繋がった。

通話ログ

図6 永遠に消えない電波[22]。Outgoing call=発信。

 出発地と目的地、日時(5月19日正午12時、私の列車は16時30分ごろ発)を伝えると、今回は前回ほど相手の反応は良くなかった。言葉を選びながら、「こちらで一応予約を試してみます」と言い、もし取れなかった場合は1時間以内にキャンセル通知のSMSが届くと告げられた。そして実際に届いた。翌日も午前中いっぱい電話をかけ、もう一度だけ繋がった。今度は「11時と12時はすでに満杯なので、13時発で試してみます。取れなければ1時間以内にキャンセルSMSが届きます」と言われ、そして——また届いた。

キャンセルメール

画像:2通のキャンセルメール。

図7 努力は頑張る人のみ裏切る。頑張らなければ裏切られない

 この時点で、私に残された選択肢は2つしかなかった。徒歩、あるいは闇車(営業免許のないタクシー)だ。シェアサイクル(共享单车)は真っ先に除外した。スーツケースを引きずらなければ服一枚すら持っていけないからだ。徒歩なら距離は20km強、25km未満。高徳地図では4時間余りと表示されていたが、荷物を引いての長距離移動を考えれば、最低でも7〜8時間はかかる。一方、闇車の世界は奥が深い。私は「58同城」[23]の「上海配車」板、「百度貼吧」[24]の「上海拼車(相乗り)」板、そして検索エンジン経由で見つけた「微博」[25]や「小紅書」[26]などのページから、いくつかの闇車業者のWeChatを見つけ、相場[27]を聞いて回った。だいたいこんな具合だった。

悪徳業者1

私:こんにちは。5月19日、静安区から虹橋駅まで車はありますか

相手:あります

私:おいくらですか?

相手:2000(約4万円)

私:(既読スルー)

悪徳業者2

私:こんにちは。5月19日、静安区から虹橋駅まで車はありますか

相手:あります

私:おいくらですか?

相手:20km以内1000元(約2万円)、20km超は10kmごとに120元(約2500円)追加。罵倒しないでくれよ、会社規定だから。俺はただのカスタマー対応係

私:どんな会社ですか? 正規ですか?

相手:上海xxxxxx公司

私:(天眼查[28]で調べると、同名の正常経営中の会社が実在)

相手:正確な位置を送ってください、正確に見積もります

私:(団地の住所を送信)

相手:700(約1万4千円)。先に全額支払いが必要です

私:全額ですか?

相手:はい。以前、手付金だけ払って最後に払わない人が多かったので。これも会社規定です。合わなければ他を当たってください

相手:48時間以内のPCR陰性証明が必要です

私:今日の朝に検体採取して、まだ結果が出ていません。明日乗る時には24時間以内になりますが大丈夫ですか

相手:直近のPCR結果は?

私:48時間を超えています

相手:当社では、予約時点で48時間以内の陰性結果が必要です

私:はあ……

悪徳業者3

私:こんにちは。5月19日、静安区から虹橋駅まで車はありますか

相手:明日は1本だけ。朝6時。途中で拾ってあげられる。相乗りで800(約1万6千円)でいいよ

私:荷物の制限は?

相手:多すぎるのは無理

私:スーツケース3つ、全部大きくはないです

相手:3つは絶対無理

私:はあ……

悪徳業者4

私:こんにちは。5月19日、静安区から虹橋駅まで車はありますか

相手:あります

私:おいくらですか?

相手:今は貸切のみ。何人? 3人以下なら1200(約2万4千円)、3人超えたら63000(約126万円)。高くない、高くない。今はこの相場

私:明日の午前でも大丈夫ですか

相手:昼間は警察の検問が厳しい。早い方がいい。深夜1〜2時、3〜4時に出た方が安全

私:(警察を避けないといけない時点で、本当に大丈夫なのか……)

 何件か当たってみたが、どれも一長一短で、いっそ歩いた方がマシに思えてきた。20kmちょっとだ。一晩歩けば着くだろう。まさかこのご時世の上海の夜に、強盗が出るわけでもあるまい。

[22] 「永遠に消えない電波」八一映画製作所 1958。日中戦争で日本軍の検問をも乗り越え、最後に国民党によって逮捕された中国共産党の隠れ工作員の物語。特に関係は無いが、てか観たことも無いが、名前をネタにしただけ

[23] 58同城とは、自分の現在地のご当地情報やサービスを検索するウェブサイト・スマホアプリ。賃貸物件探しや、アルバイト探し、青空市場情報などがある。

[24] 百度貼吧とは、中国の2chのようなもの。

[25] 微博とは、中国のTwitterのようなもの。

[26] 小紅書とは、中国のインスタグラムのようなもの。

[27] 普段の上海のタクシー相場は、最初の3kmで20元(約400円)、それから1kmごとに3元(約60円)追加。

[28] 天眼查とは、法人の登記情報や経営状況、親会社子会社情報、裁判情報、関連ニュースなどを検索できるウェブサイト・スマホアプリ。

出発直前

 5月18日午後5時半、私はついに徒歩で虹橋駅へ向かう決心をした。この時点で、その日の朝に受けたPCR検査の結果はすでに出ていたが、不確実で落とし穴だらけの高額な闇車に再び連絡する気にはなれなかった。そこで居委会に電話し、「離滬証明」に書かれている「発車6時間前」という条件に達していなくても問題なく団地を出られることを確認し、荷物をまとめて出発の準備をした。

 私の荷物は、小さめの四輪スーツケースが2つ、段ボール箱が1つ、そしてバックパックが1つ。バックパックにはノートPC、各種充電器やケーブル、モバイルバッテリーなどの雑多な物、洗面用品一式、水を満タンにした水筒2本が入っていて、とにかく重かった。段ボール箱は以前PCを買ったときのもので、PCやスマホの箱、Switchのドック、PCの電源アダプターや外付けハードディスク、数冊の本など、四角い物がぎっしり詰まっていた。スーツケースの中は衣類で、冬物から夏物まで全部入っている(上海が封鎖された当初はまだ冬服の季節だったが、私が出る頃には昼間に半袖を着ないと暑いほどだった)。そのほか、布団2組、毛布2枚、厚手のコート1着、分厚いウール混のズボン数本はどうしても持って行けず、大家さんのところに預けるほかなかった。

 ここで、上海での大家さんについて触れておかねばならない。私は彼らの家の小さな一部屋を借り、キッチンとトイレを共用していた。大家さんは60代後半の夫婦で、彼らに対する感情は正直言って複雑だ。まず認めなければならないのは、彼らの家に住んでいる間、食糧不足を心配したことは一度もなかったということだ。家にある物は何でも食べさせてくれたし、私の団地自体も物流が比較的行き届いていて、注文した物資もちゃんと届いていた。しかし同時に、大家のおばさんの過剰な「気遣い」は、私にかなり深刻なストレスを与えた。以前から頻繁に食事に誘われていたが、その頃は毎日朝早く出て夜遅く帰る生活だったので、影響はそれほど大きくなかった。だが封鎖されてからは家に閉じ込められ、逃げ場がなくなったうえ、おもてなし好きな上海のおばさんというのは、こちらの「拒否」を決して理解してくれない存在だ。私はきっぱりと彼らの食事を断り、自分で料理すると伝えたが、今度は一般大衆の食事時間帯になって私が食事しないことにしつこく不満を示されるようになった。仕方なく部屋に閉じこもり、夜更けに皆が寝静まった後、こっそりキッチンに行って自分の食事を作っていた。私はもう二度と「遠慮しないで」という言葉を聞きたくない。本当に、美しい世界とは、誰もが「社交辞令」と「本当の拒絶」の違いを理解している世界なのだと思う。[29]

 大家さんに挨拶を済ませ、最後の食事を作った。大きなポークチョップを2枚焼き、リンゴ2個とミカン1個を食べた。リンゴと非常食を入れたビニール袋をスーツケースの取っ手に結びつけ、さらに太いガムテープでティッシュ一袋を取っ手に固定した(いったん中身を取り出し、袋の中にガムテープを通してから取っ手に巻き、最後にティッシュを戻す)。替えの靴も袋に入れて取っ手に結びつけた。もう一つのスーツケースには段ボール箱をガムテープで直接固定した。こうして荷物は「3個」から「2個」になり、両手で1つずつ押して歩けるようになった。

 マスクを着け、離滬証明を入れた書類袋をスーツケースに挟み込み、荷物を押しながら大家さんに別れを告げた。大家さんは「いつ戻ってくるの?」と聞いた。私は「もちろん、上海が封鎖解除されたら戻ります」と答えた。さらに「戻ったらまた住むの?」と聞かれ、「住まないです。荷物を取りに来るだけです」と答えた。彼女は「分かりました」と言い、互いに無事を祈って、階段の踊り場で別れた。

 団地を抜けると、青い防護服を着た居委会関係者らしき人たちが、公共スペースで集団的濃厚接触活動――要するに固まって涼みながら雑談をしていた。彼らは気軽に話しかけてきて、実家はどこか、帰ったら隔離があるのか、隔離費用は自己負担か、といったことを聞いてきたので、具さに之れに答ふ。団地の門で警備員に「出国ビザ」を見せると、情報の記入を求められた。その用紙は明らかに、以前の「他所から上海に来た・上海に戻った人」の登録表を流用したもので、「来滬/返滬」という文字をペンで消して「離滬」と書き直してあった。新しい様式を作る条件などなかったのだろう。開いている印刷屋がどこにあるというのだ。日本人が用紙の元号「昭」を二本線で消して「令」に書き換えて使い続けるようなものだ。とりあえず使えればそれでいい、というやつである。その後、警備員は私の身分証を確認し、列車の切符、健康コード、PCR検査結果をチェックし、さらに離滬証明を手に持たせて上半身の写真を撮った。すべてが終わると、彼は出ていいと合図し、リモコンで車道のバーを上げた。ちょうどその時、スマホが鳴った。見ると、私がフォローしている上海の女性Vチューバーが、「男がスーツケースを引きずって上海から江蘇省まで歩いて帰る」というニュースのスクリーンショットを送ってきていた。私は苦笑した。時刻はちょうど夜7時。安堵と、ほんのわずかな高揚感を胸に、私はこの旅のポイント・オブ・ノー・リターンを越えた。

荷物

画像:スーツケース2つが地面に置かれて、そのうちの一つに、段ボール箱がガムテープで留められている。

図8 上海難民の全財産

[29] 私は上海料理を食べられない。私が生まれ育った江西省という場所の料理はごく一部の献立を除いて甘さは一切ないから、私にとって甘い物は基本的にデザートの部類に入るもので、熱々炊き立ての白いご飯と一緒に食べることは考えられない。しかし上海の料理は何でも甘いので、個人的には非常に不味く、むしろそれを食べるなら毎日缶詰を食っているほうがマシだと思えるぐらいだ。(実際、調理してからではあるが缶詰を食べていた。)一般大衆の食事時間帯になっても食事しない理由は、その時間帯で上海人の家のキッチンに漂う空気すら息が詰まるほど甘ったるく、料理なんてするどころではなかったから。

余談だが、私は自分の味蕾を守るために料理の甘さを見極めるスキルを身につけていると自負してはいるが、それが効かなくなってひどい目にあったこともまれにある。日本で

5月18日夜〜5月19日朝・上海

上海ジョーク

上海三大ミステリー:

1、陽性者は毎日増えているのに、「高リスク地区」がない;

2、「高リスク地区」がないのに、外出は許されない;

3、外出できないのに、陽性者は毎日増えている。

百鬼夜行

 夜7時。老若男女にちょうどよい夜のゴールデンタイムに、上海の通りには人影がまばらだった。固まっているのはたいてい青い防護服を着た人たちで、青果店の前に集まり、トラックから荷物を下ろしては運び、また運んでは戻す。電動バイクや自転車に乗る人もいて、分厚くマスクをつけ、足早に去っていく。私のように歩いている人はほとんどいない。ただ一つ共通しているのは、誰一人として口を開かないことだった。この街は、まるでゴーストタウンのように静まり返っていた。

 ときおり小型車が私の横を走り抜ける。何の用事で走っているのか、一晩でいくら稼げるのか、私には分からない。曲がり角を抜けて、中環高架道路の下の幹線道路に出ると、大小のトラックが車道の主役になった。もっとも、その数も多くはない。交差点で赤信号を待っても、列ができることは一度もなかった。信号機は相変わらず淡々と切り替わり、道路に車が多かろうが少なかろうが、すでに風景の一部と化したこの人類文明の遺構は、忠実に本来の役目を果たしている。私は高徳地図の徒歩ナビを起動して目的地を設定し、スマホをポケットにしまうと、耳に残るのは、スーツケースの8つの車輪が地面を転がる音だけだった。

 スマホは長いあいだ一言も発しない。壊れたのかと思って取り出してみると、画面の表示は「300メートル先を左折」から「100メートル先を左折」に変わっていた。たしかに、この程度の距離で多くを語る必要はなかろう。ふと、これまでに味わったことのない孤独感に包まれ、人気のない大通りを見渡しながら、歯を食いしばって歩き続けた。大通りを離れ、二車線の一般道路に入ったところで、母からメッセージが届いた。「もう遅いから、明日の朝5時に出なさい」。私はすでに出発したと伝えた。結果的に、この判断は正しかった。もし本当に昼間に出ていたら、私の旅はこんなに順調ではなかっただろう。右手には団地があり、入口には出前を置く棚が設けられ、数台の電動バイクが停まっている。配達員の声は聞こえない。左手には一軒だけ開いている麻辣湯の店があり、すでにデリバリーを再開していた。黄色と青の制服[30]を着た若者が6、7人、入口にひしめき合っている。商売はずいぶん繁盛しているようだけど、これが、報道で言うところの「上海の生活感(烟火气)」というものなのだろうか?

 交差点に差しかかると、道路全体がバリケードで封鎖され、小さな隙間だけが残されていた。歩行者と二輪車だけが通れる。私はスーツケースを押して出て、車一台通らない交差点で、律儀に二分間も赤信号を待ち、道路の向こう側へ渡った。再び幹線道路に戻ると、今度は交通量が少し増え、電動バイクに乗った黄青制服の配達員たちが、風を切って私の横を走り抜けていく。突然、右手の木陰でバイクを停めて休憩していた青い騎士さんが声をかけてきた。

 「兄ちゃん、どこ行くんだ?」

 「実家に帰るんです!」

 私は弾んだ声で答えた。上海を離れられることが、ただただ嬉しかった。

 「実家?虹橋駅か?」

 「はい、虹橋です!」

 「歩いて行くのか?」

 「そうです、歩きです!」

 「すげえな兄ちゃん!」

 彼は心からの敬意を示したうえで、こう提案してきた。

 「150元(3000円)くれたら、バイクで送ってやるぞ」

 電動バイクに乗せるだけで150元は高すぎる、と思う人もいるだろう。しかし私には、この値段は彼の助け合い精神を十分に示しているように思えた。私は本当に連れて行けるのかと聞いた。彼は自信げに胸を叩き、「通行証があるから大丈夫だ」と言う。もっとも、通行証があっても人を乗せていいとは限らないはずだが、たとえ捕まったとしても、降りて歩き続けるだけのことだ。この人がバイクで助けてくれるだけでも、雪中の炭だった。私は「本当に送ってくれるなら200元(4000円)払います」とチップをつけて、交渉成立。彼はスーツケースの一つをバイク後部の配達ボックスに放り込み、もう一つを前に挟み、私はリュックを抱えて後部座席に跨った。こうして、この即席白タクは走り出した。

 ナビを設定しながら、彼は私の名前を聞いた。「途中で警察に聞かれたら、ちょっと乗せてるだけで金は取ってないって言えばいい」と言う。そして彼自身の名前も教えてくれた(以下、「余(よ)兄」と呼ぶ)。言ったそばから、次の大きな交差点で検問に当たった。バリケードの横に、防護服を着た警察官が一人、ぽつんと立っている。停車し、まず余兄の電子通行証を確認。次に警察官は私を見て、「何をしてるんだ?」と聞いた。余兄が「ちょっと乗せてるだけです」と答えると、私は自分の通行証、PCR検査結果、そして切符を見せた。余兄はなおも「金は取ってません」と説明したが、警察官は「金を取らなくても違反だ」と言った。それでも特に咎められることなく、書類を確認すると通してくれた。

 四車線道路の追い越し車線を電動バイクで走りながら、私たちはずっと話していた。彼は山東省出身で、仕事を求めて上海に来て間もなく封鎖に遭ったこと、配達員だったため4月8日に通行証を申請して外に出られるようになったこと。封鎖初期は注文が殺到し、朝から晩まで働けば一日数千元(数万~十数万円)稼げたが、最近はそうでもないこと。もっと稼いでいるのは団体購入をやっている連中で、一日一万元以上(20万円以上)になるが、上にどれだけ上納しているかは分からないこと——そんな話をしているうちに、二つ目の検問に着いた。

 二つ目は人が多く、小さなテントが張られ、3、4人の警察官が6、7人の配達員を一人ずつ止めて通行証を確認していた。流れは同じで、まず余兄、次に私の通行証・PCR結果・切符。通ったら余兄は「本当は高架道路を走るんだけど、今は怖くて無理だ。しかも夜だから警察が少ない。昼間だったら、絶対にこんなことはしない」と言った。これが、私が夜に出た判断が正しかった理由だ。それから30分も経たないうちに、三つ目の検問に到着した。すでに別の人が止められていて、詳しいやり取りは聞き取れなかったが、警察官がシェアサイクルに乗った若者に「お前の団地が証明を出さないのは、俺たちの問題じゃない、……」と言っているのが聞こえた。この夜、上海の路上には、また一人ホームレスが増えるのかもしれない。でも、それがどうしたというのだ。上海の路上は、もはやホームレスだらけなのだから。

 三つ目の検問も無事通過し、走ることしばらくで、虹橋駅まで残り2、3kmという場所に着いた。余兄はここで私を降ろし、私は路肩でばらした荷物を組み直した。配達ボックスからスーツケースを取り出すと、中にはタオル数枚、飲み物数本、そして乾麺1斤(500g)が入っていた。それが配達の品かと聞くと、「自分で食うんだ」と答えた。私は約束通り現金200元を支払い、改めて礼を言って、電動バイクが闇に消えていくのを見送った。

 このあたりでは、すでに道端に布団を敷いて野宿している人の姿が見え始めていた。私はナビに従って歩き続け、交差点で曲がろうとしたところ、向かいからシェアサイクルに乗った人が「駅は反対だよ!」と叫んでくれた。礼を言って後について行くと、ほかにも何人かのおばさんたちが一緒だった。その人は「道を間違えないように案内しに戻ってきたの」と言う。しばらく歩いて、ついに虹橋駅手前、最後の交差点にたどり着いた。

難民キャンプ

画像:真夜中の交差点に、十数人が地面に座ったり寝泊まりしている。

図9 交差点難民キャンプ初探査

[30] 中国の出前デリバリーは「美団出前(美团外卖)」「お腹空いたか出前(饿了么外卖)」と二大会社によって支配されている。配達員たちは会社支給の制服を着用して、電動バイクに乗って街を走る。美団のテーマ色は黄色で、お腹空いたかのテーマ色は青である。

風「雨」にさらされて

 交差点では、先ほどの自転車のおばさんが親切にも「この先はもう封鎖されていて、駅には行けないよ」と教えてくれた。別に彼女が私たちを騙す理由もないし、ちょうどここにある難民キャンプは規模も比較的大きく、ひと目見ただけで地面に3、4枚の布団が敷かれ、十数人が集まっているのが分かった。そこで私は、ここで一晩休むことに決めた。場所は高架橋の下で、そこそこ広い緑地がある。もっとも、大半の人は奥まで入らず、歩道や橋の真下に集中していて、緑地の奥にはぽつぽつと人がいる程度だった。私はスーツケースを押して芝生に入り、持ってきたリンゴを食べ、水を少し飲んだあと、橋の下に移動して荷物を広げ、あり合わせの個人領地を作った。

 人は確かに多く、装備も千差万別だった。最も豪華な住人は2、3人眠れそうなテントを張り、入口には電動バイクまで停めてあって、この難民キャンプの総督のように見えた。その次のクラスは布団を2枚持ち、一枚を地面に敷き、もう一枚を掛け、3、4人で一組になって、頭の下にはそれぞれの荷物を無造作に並べて眠っている。さらに下になると、敷く布団は一枚だけで、厚着をして何とか休む人たち。最下層は私のように、何も持たず、荷物を並べて座って休むしかない者だ。隣の同じ境遇の兄弟が、私にパンを一枚分けてくれた。手持ちの食料は翌朝の朝食に取っておかなければならず、こちらは何もお返しできず、申し訳なかった。彼はさらにゴミ袋を一巻くれた。地面に敷いて埃よけにできる。私はその上に冬物の服を一枚敷き、ようやく辛うじて横になれる程度の環境を整えた。

 パンをくれた彼は、翌朝8時発の列車で、私と同じく今夜来たばかりだという。隣の若い青年は5月21日の切符を持っているが、それでも今ここに来て、5月20日の切符を狙ってまだ闘争中だった。一枚だけ布団を持つ江蘇省南通市出身のおじさんは、もう何日もここにいて、いまだに切符が取れていない。歩道に布団を敷いている数人については詳しく聞かなかったが、装備の充実ぶりや、切符争奪戦の話題から察するに、すでにしばらくここで生活しており、これからもまだ当分ここにいるのだろう。彼らにははっきりした目的地すらなく、「山東の済南は政策がいいらしい、隔離費用も無料らしいぞ。じゃあ済南行きを狙おうか!」などと話していた。とにかく外へ逃げ出せさえすれば、行き先はどこでもいいのだ。これが、四海を渡り歩く出稼ぎ労働者の現実なのかもしれない。

 公衆トイレはなく、ネットの情報では、上海封鎖後はトイレもすべて閉鎖されたという。他の人に聞いて、私は芝生の奥の低木のそばへ行った。地面には食品包装などのゴミが大量に散乱しており、誰も片づけないが、皆暗黙の了解でそこを避けている。用を足し、急いで自分の場所に戻ってアルコールシートで手を拭いた。ここで長く生活している人たちは、いったいどこで大便をしているのだろう――そう考えた瞬間、思わず身震いした。

 ここで私は、生まれて初めて、何らかのスタッフではない人の白い防護服姿を見た。二枚の布団を持つグループの一員で、最初は警察の工作員かと思ったが、よく見ると着方がめちゃくちゃだった。帽子は被らず後ろに垂らし、靴カバーも付けずに運動靴のまま歩き回り、極めつけは手袋すらせず、スマホを触ってはあちこち触り、防護服の上からもベタベタと触っている。その光景は、元医療従事者だった私の血圧を一気に上げたが、まさかこの後、同じような場面を何度も目にすることになるとは、その時は思いもしなかった。

 ここでの会話は、主に小さなグループ内での雑談が中心で、グループを越えた交流となると、話題は決まっている。切符争奪、PCR検査、隔離だ。どこの駅行きを狙うのか(これ自体も議論できる問題になっている!)、どのアプリを使うのか、ダフ屋はどこにいるのか、いくら上乗せされるのか――切符の話は最も場を盛り上げる。すでに切符を持っている人たちの間で最重要情報だったのは、十字路から西へ大通りを3kmほど行くと、24時間営業のPCR検査所がある、ということだった。5月21日の切符を持つ隣の兄弟は、きっと再検査が必要になるだろう。私は手持ちの余分な抗原検査キットを一つ、彼に渡した。

難民キャンプ

画像:難民キャンプの中から見る住民たち

図10 再び見れば、すでに絵の中の人なり

 気づけば時刻は深夜0時。夜の冷たい風は次第に骨身に染みるようになり、さらに冬物の服を二枚かけても、まだ寒かった。南通出身のおじさんは空を見上げ、「この空模様はおかしい、明日は雨になるかもしれない」と言った。ちょうどその時、歩道に布団を敷いていた人たちが慌ただしく荷物を片づけ始めた。最初は、まさか本当にこんなに早く雨が降るのかと不思議に思ったが、すぐに水滴が彼らの布団に落ちているのが見えた。雨ではない。上の高架橋から水が落ちてきているのだ。さらに30分ほどして、私は向かい側の別の高架道路の上で、ついに水神龍王の正体を目にした。消防車が、高架脇の植え込みに散水していたのである。まあ、田舎者が何枚か布団を濡らすことなど気に掛けるに値しないが、この花木だけは何がどうなっても水をやらねばならないに違いない。

 冷たい夜風と、硬くデコボコな地面に挟み撃ちにされ、ご想像のどおりこの夜の睡眠の質は最悪だった。5月19日朝5時、空が白み始め、私も起きて支度を始めた。最後のSPAMランチョンミート(198g缶)を開け、缶のフタをスプーン代わりにして半分ほど食べ、残りは袋に戻した。朝8時発の兄弟はすでに出発しており、私は南通出身のおじさんと5月21日の切符を持つ青年に別れを告げ、スーツケースを押して歩き出した。通りを進むと、交差点の反対側にも別の難民キャンプがあるのが見えた。こちらは規模がやや小さく、女性が中心のようだった(私たちのキャンプは、子ども連れの数人のおばさんを除けば、ほぼ男性ばかりだった)。道すがら、路肩や芝生に横たわって休む人の姿が途切れることはなかった。歩き始めて四、五分もしないうちに、虹橋駅の臨時入口と、その前にできた長い列が見えてきた。

投機闇商い[31]

 ほとんど停止していた上海のオフライン実体経済は、この難民キャンプの中でセカンドライフを迎えていた。私が横になって間もなく、道路の向こうから電動バイクの大部隊が轟音を立てて現れ、交差点で止まると、そのまま呼び声が始まった。第一陣は主にスナックや軽食を売っており、ひとしきり売ると去っていった。すると第二陣がやって来た。この第二陣は口ぶりが大きく、「何でもある、欲しいものは何でもある」と豪語していた。誰かが毛布はあるかと聞くと、それだけは無いと言う。別の人が防護服はあるかと聞くと、それはある、新品だ、と答えた。一着いくらだったかは、百数十元だったか二百元だったか、もう覚えていないし、結局誰かが買ったのかどうかも分からない。彼らはカップ麺も売り、しかもお湯まで用意してくれていた。私も少しお湯だけもらって飲んだが、代金は取られなかった。

 第二陣の配達員たちは、ここで難民たちとかなり長いこと雑談をし、夜0時近くになってようやく去っていった。それ以降は、あれほど大規模な車列は現れず、シェアサイクルに乗った人が一人ずつやって来て、細々と商いをする程度だった。ファミリーマートの弁当を売る人もいたが、誰もあまり関心を示さなかった。私自身もその時は空腹ではなく、値段も聞かなかった。煙草を売る人もいて、自転車のかごにビニール袋で二箱入れていた。誰かが一箱買い、売り手と自分の元の煙草を交換して、二人で一緒に吸っていた。

 朝5時に起きた時、南通出身おじさんは、シェアサイクルに座った若者と会話していた。若者は意気揚々と、自分の稼ぎ方を披露していた。シェアサイクルで仕入れに行き、往復10km、ミネラルウォーター一箱(24本)を運んできて売るのだという。話が乗ってくると、おじさんにまで「買う?」と勧めていた。おじさんは買わないと答え、代わりに数日前の水の相場を教えた。小さいボトル(550ml)が一本5元、大きいの(1.5L)が一本8〜10元[32]だという。さらに若者は、近くに「上海脱出待ちの滞留者向け」の宿泊施設があることにも触れた。警察に聞けば場所が分かり、一泊百元ちょっとで、シャワーも使え、切符が取れたら車で直接駅の入場口まで送ってくれるらしい。おじさんは「それは安いじゃないか、寝床もあってシャワーもあるのに、どうして行かないんだ」と言った。すると若者は「俺は行かない。外で水を回してた方が少しは稼げるから」と答え、再びおじさんに商品を勧め始めた。

 駅の入口へ向かう途中、私自身も、ミネラルウォーター24本入りの箱をシェアサイクルのかごの上に載せて(大きくて中には入らないので上に)、走っている人を実際に見かけた。しかもスピードはかなり出ていた。どうやってバランスを取っているのか不思議でならなかったが、きっと生まれつきの怪力なのだろう。

[31] 投機行為は社会主義計画経済体制においては犯罪であった。「投機倒把罪」という罪がかつて中国やソ連に存在しており、1997年の刑法改正で中国刑法から削除されたが、その単語は日常会話に留まっている。

[32] 普段の相場は、小さいボトル2元、大きいボトル4~5元。

電気猿のクロニクル

 この難民キャンプで、私が最も驚いたのは、彼らが交流220V(中国の家庭用)の電源を引き出せていたことだ。

 最初、私は自分の場所で横になりながら、外で人々がスマホで「王者栄耀(オナー・オブ・キングス)」のゲーム配信を熱心に見ているのを目にし、「こんな電力を食うこともやるのか」と不思議に思っていた。ところが、道路脇の配電箱のそばに人だかりができ、箱の中から一本のケーブルが伸びているのを見て、ようやく合点がいった。近づいてみると、地面にはタコの足が片手では数えきれないほど並び、スマホ用充電器の総数は20個前後にも達していた。後になって、おじさんがMicroUSBの充電ケーブルを探したが見つからず、私は自分のガラケー用ケーブルをノートPCの充電器に差して貸してあげた。

配電箱

画像:分電盤のブレーカーから一本のケーブルが繋げられていた。

図11 電力窃盗集団の核心技術

 配電箱の中にはブレーカーが一列に並んでおり、そこに直接プラグを差し込んでいた。そのプラグから延びた延長コードが、難民キャンプ全体の母なる川となっていたのだ。仕組みは単純に見えるが、電力設備工事であることに変わりはない。ここに最初からいた人の中には、経験豊富な電工職人さんがいたのではないかと、私は強く疑っている。少なくとも、私には絶対に真似する度胸がない。距離もあったので、私はもっぱら自分のモバイルバッテリーでスマホを充電していた。後になって、上の高架から散水車が水を撒いた時、私はずっと離れていたにもかかわらず、やはり肝を冷やした。幸い、むき出しのタコの足には水がかからなかったようだ。

 朝5時20分、配電箱のそばにいた若者が、どうやら撤収準備を始めた。5時25分ごろ、彼は配電箱を開けてプラグを抜き、ケーブルをくるくると巻いて、どこかへしまってしまった。こうして電力供給は断たれた。すでに空はすっかり明るくなっていたが、私たちは人類の文明の光を失ったのである。

5月19日・上海

上海ジョーク

個人的には、上海の防疫対策についてはかなり肯定的に評価している。上海の防疫政策は総じてとてもよくできていると思う。唯一の欠点は、私が上海にいることだ

内巻き競争[33]

 朝5時半、虹橋駅の入場待ち列の最後尾に着いたとき、すでに列はおそらく50メートルほど伸びていた。防護服を着た人はたくさん見かけたが、肝心のスタッフの姿は一人も見当たらない。空はだんだん暗くなり、ほんの少し雨が降り始めた。列に並ぶ人々は誰も雨宿りしようとせず、傘を差す者もいない。まるで雨など存在しないかのようだった。幸い雨脚は弱く、1〜2分で止んだ。今にして思えば、これもまた高架の上の散水車が、真面目に緑化作業をしていただけなのかもしれない。本来ならそのまま列の最後尾に並ぶつもりだったが、そのとき前方から拡声器の声が聞こえてきた。「午前11時以降の列車の人は並ばない! この回では中に入れません。午前11時以前の人から並んでください!」私は素直に列を外れ、道端で休んでいた人に声をかけてみた。彼は正午12時発の列車だと言う。彼ですら急いでいないのなら、私が焦る理由もない。そう思って荷物を下ろし、シェアサイクルにまたがってうたた寝を始めた。

虹橋の行列

図12 虹橋へ続く「虹の橋」

 道端にも座り込んで休んでいる難民たちがいる。植え込みの向こう側にはまた広い緑地があり、奥はかなり深く、ひっきりなしに人が出入りしている。おそらく中で用を足しているのだろう。遠くから、女性の鋭い泣き声が聞こえてきた。何を叫んでいるのかは分からなかったが、上海脱出の計画が崩れたのだろう。切符が取れなかったのか、PCR検査結果が期限切れだったのか、あるいは単に日付を見間違えたのかもしれない。隣の列にいた男が小さく「今さら泣いて何の役に立つ」と呟いた。私は、「泣いて何の役に立つ」を平然と言う人間にはなりたくないと思った。

 道路の交通量は徐々に増えてきた。小型車が振り返りもせず背後のランプへと消えていく一方、大型バスが道の端で止まり、青い防護服を着た数人の乗客を降ろす。清掃車が反対側の歩道沿いを進み、路上のゴミを吸い込み、道端で休んでいた難民たちは次々と立ち上がって避ける。LED画面を消したまま、フロントガラスの内側に「防疫保障車」の札だけを置いた路線バスもあり、私たちが入場しようとしている交差点から逆に出てきて、拡声器を持った係員が「少し横に避けてください」と繰り返し叫んでいる。後になって分かったが、これらのバスはすべて駅構内から出てくるものだった。その出口からバスが一台出るたびに、前方の列は組み直され、一瞬後ろの人間が前へ進めるような隙間ができる。事情を知らない後方の人々は、そのたびに「動いた!」と期待するが、その希望はすぐに打ち砕かれる。それが何度も繰り返されるうちに、皆も疲れ果て、さらに前方から「8時か9時にならないと入れないらしい」という真偽不明の情報が伝わってきたことで、道端で休んでいた私たちは落ち着いて様子を見ることにした。

 ところが、再び列が動き始めた。今度はこれまでと違い、人の流れが30秒以上止まらない。私も箱を押しながら流れに乗った。前方の拡声器からは「午前11時以前の人から中へ。11時以降の人はこっちで待って!」という声が聞こえたが、周囲の誰も気に留めていない。ここにいる全員が本当に11時以前の列車なわけがないし、隣にいる12時発の彼も一緒に歩いている。私もそのまま進んだ。交差点に着くころには、拡声器の内容も変わり、「ここでは切符だけ見ます。切符を持っていれば入れます」となり、11時云々の話は完全に消えていた。ときどき、「PCR検査結果が48時間以内か自分で確認して」「ここでは切符だけ、PCRは上で見る」「上海虹橋駅かどうか確認して、上海駅[34]の人はここじゃない」と注意が飛ぶ。後ろでは慌ててスマホを開き、切符を確認する者、PCRを確認する者、さらには24時間以内の抗原検査結果を提出する方法を教えている者もいた。「私ここに2個あるから、1個持ってってスキャンしなよ」と言っている彼女は、すでに陰性結果の出た抗原キットをそのまま仲間に渡していた。抗原検査など、偽造するのに何の技術も要らない[35]。たぶん、誰も本気では気にしていないのだろう。

 検問が近づいたところだが、後ろにはまだ大勢いるし、私の列車は16時半過ぎだ。ここで急ぐ必要はないと思い、再び道端に退いて座り、列が中へ吸い込まれていくのを眺めた。すると赤いベストを着た、どう見ても乗客ではなさそうな人物が走り込んできて、冷笑混じりに言った。「君たちほんとに経験不足だな。こんなに密になって。ここで陽性が一人出たら、全員濃厚接触者だよ〜」ここにいる人間は皆、何重もの関門をくぐり抜けて来た者ばかりで、48時間以内の陰性証明を持っていない人などいない。それに、オミクロンの陽性者が出たら、2メートル離れていようが濃厚接触だ。どうせ駅に入ればまた密になる。そんな彼自身は孫悟空のプラスチック仮面を被り、まともなマスクもせず、我々の列に割り込んで「🙌誰よりも👐俺が👌防疫を☝分かってる」みたいな顔をしている。もし陽性が出たら、真っ先に濃厚接触者になるのはお前だ。何なんだこの野郎。

 9時半前には、4時間かけてできた列はほぼ消化され、検問の処理速度と新たに並ぶ人の速度が釣り合った。私もスマホで切符を開き、入場の準備をした。後ろの孫悟空はまたもや口を開き、「そもそも並ぶ必要なんてなかったのに、こんなことになってさ〜」と講釈を垂れる。この馬飼い係補佐官(弼馬温)の野郎は、全員が経済人(ホモ・エコノミクス)という仮定の世界で一生を生きてきたのだろうか。私は列に従って坂道を上がった。重心の関係で、一つのスーツケースは押せず引きずるしかなく、ひどく体力を消耗する。少し進んでは手を替え、その間にもう一つのスーツケースが倒れ、また起こす。その繰り返しの中で、右手の親指の爪がいつの間にか欠けていることに気づいた。仕方がない。衣服で尖った縁を削り、無視することにした。その横を、「防疫保障」と書かれたトラックが坂を上っていった。荷台には12、13人ほどの、いかにも農村風の身なりの人々が座っている。年寄りも子どももいる。その一台のために、彼らもきっと相当な代金を払ったのだろう。

[33] 内巻とは中国で近年流行り始めたネットスラングで、閉鎖的な環境で資源の総量が変わらない中、仲間内の激しい競争にお互い無意味に消耗し合うことを言う。

たとえば、大学受験においてみんなが夜11時まで勉強する中、一人だけ朝1時まで勉強し始めて、自分の成績を上げた。それを聞きつけた人々はみな朝1時まで勉強するようになり、みな素点が同じ程度上がって、結局は誰の偏差値も上がらないまま、全員に2時間の夜更かしを強いられただけの事態になった。

[34] 上海の名を抱える鉄道駅はいくつかあり、上海虹橋駅のほかに上海駅、上海南駅、上海西駅などがある。

[35] 鼻に綿棒を入れてこすってから、その綿棒を試薬の瓶に入れてこすって、試薬を試験紙に垂らすのが正規な手順だが、綿棒を無視して試薬をそのまま直接試験紙に垂らせば陰性結果の出来上がり。

記憶喪失の坂道

 長い上りのランプを進み続け、私はようやく脱出者の本隊とともに、比較的平坦な高架道路に出た。ここはすでに幹線道路と合流しており、虹橋駅の進駅口と同じ高さにある。対向車線では、大小さまざまな「防疫保障」車両がひっきりなしに走り去っていく。後になって分かったことだが、それらはすべて駅入口から出てきた車で、降ろすべき人はすでに降ろし終えていたのだろう。私たちはこの車線の幅いっぱいを占拠し、雑踏となって三列に並んでいた。

 「閔行(行政区の名前)公安」と書かれた防護服を着た人物が拡声器を手に現れ、行列を整理し始めた。二列に並べという指示で、隣にいた一組の男女が、礼儀正しく私に先に行くよう促してくれた。もっとも「一組の男女」と呼ぶのは正確ではないかもしれない。彼らの会話を聞く限り、ここで列車を待つ間に知り合い、偶然行き先が同じだと分かって連れ立つようになったようだった。拡声器は引き続き、「自分のPCR結果を確認せよ、48時間を超えている者は向こう側に降りてやり直せ」と叫んでいる。私たちはゆっくり前進し、最初の検問に着いた。通路は二つしかなく、道理で二列にさせられたのだ。ここでは健康コード、正確にはその中の「48時間以内のPCR陰性証明」を確認された。続いてすぐ、切符を開けという二つ目の検問があった。

 橋の下からここまで、隊列は一本の道をただ進むだけで、途中に人が抜けられる分岐は一切ない(周囲はすべて高架だ)。下で確認したものを、なぜ上でもう一度確認するのか、私はまったく理解できなかった。しかし、見せろと言われれば見せるしかない。二つの検問を過ぎると、情報をチェックする防護服姿の人は、どうやら「閔行公安」から鉄道関係者に変わったようだった(あくまで推測だが)。そしてまた、48時間以内のPCR結果の確認。横の掲示板には「PCRが24時間超48時間以内の場合は、24時間以内の抗原検査結果も必要」と書かれており、何人かは道端に駆けて行き、その場で抗原検査キットを使って検査していた。だが私は48時間以内のPCR結果を開いただけで、そのまま通された。抗原結果を見せろとも言われなかった。理由は分からない。

 最後の切符確認の検問を越え、私はようやくこの高架区間を抜け、駅入口前の降車エリアに出た。ここでは、多くの人が路肩に座ったり、自分の荷物の上に腰掛けたりして休んでいた。駅入口前には三、四列の行列があり、長さはせいぜい十数メートルほど。絶えず新しい人が最後尾に加わっている。向かい側の車線を見ると、非常に長い車列ができていた。小型車、大型バス、トラック――ありとあらゆる車が、駅入口の前でちょうどよく人を降ろし、降ろされた人々はそのまま列の最後尾へ入り、車は再び私が歩いて登ってきた高架を下って去っていく。

駅入口

画像:上海虹橋駅の入口。

図13 大上海で最も上海らしい場所

 私はしばらく路肩で休み、その後、駅に入る列に加わった。外の自動券売機はすべて停止しており、ガラス越しには、清掃用具が積み上げられた部屋と、マスクを着けていない職員の姿が見えた。この列の先頭にいたのは、背中に「特勤」と書かれた職員だった。要求されたのは「随申弁 健康コード」の緑コード[36]で、これまでと違ったのは、肉眼で確認するのではなく、直接スマホで私の「随申弁 健康コード」をスキャンしたことだ。スマホが「認証通過」と音声を出すと、そのまま通された。24時間以内の抗原結果については何も聞かれなかった。おそらく「随申弁 健康コード」から「疫測達」[37]のデータベースに接続し、私が自己申告した24時間以内の抗原結果を確認できたのだろう。確信はないが、もしそうでなければ、私の24時間以内抗原陰性結果は、最初から最後まで一度も使われなかったことになる。(12306[38]で確認できた当時の上海の政策説明では、「随申弁 健康コード」でPCRおよび抗原の検査結果を確認できるとされていた。)

 この関門を越えると、あとは完全に普段の列車利用と同じ流れだった。身分証をかざし、手荷物検査を受け、待合室へ。もはや誰も、私が「離滬証明」を持っているか、48時間以内のPCRは陰性か、24時間以内の抗原は陰性か、健康コードが緑かどうかなど、気に留めることはなかった。

[36] 「健康コード」は緑・黄色・赤に色付けられたQRコードで、緑は低リスク、赤は高リスクを表す。色がついたQRコード画像自体は偽造できる(それを偽造するためのアプリも開発されている)が、コードの内容は暗号化されており政府の特殊設備だけが復号できる。

[37] 「疫測達」とは当時、上海虹橋駅が要求する抗原検査の結果を提出・提示するためのWeChatミニプログラム。

[38] 12306とは、中国国鉄のホットラインの電話番号で、ウェブサイトやスマホアプリの名前でもある。

ファッション・メトロポリス

 虹橋の駅の構えは他所と違っていずれも皆、円環状の大櫃台(カウンター)を中央に据え、櫃台の内側には防護服を着た職員が座っており、質問がすぐでも間に合うようになっている。乗車をする人達は検査と改札を終えて駅に入るとにいちいち五元銭を出しては飲み物を一本買い、櫃台に靠れてギンギンに立飲みをする。もしモウ五元出しても差支えなければ、小さな餅干(ビスケット)や香腸(ソーセージ)を取ることが出来る。もし果して四十元を足し前すれば、弁当箱の方が取れるんだが、……[39]まあ、冗談はこのくらいにしておこう。

 真面目な話をすると、虹橋駅の内部は、おそらく上海で一番上海らしい場所の一つだ。待合ホールは人で埋め尽くされている。座席の着座率は半分ほどだが、それは皆が感染対策を徹底して距離を取っているからではなく、単に隣の席に荷物を置くのが好きだからにすぎない。総じて言えば、構内の店が営業していないこと、ひっきりなしの検札アナウンスがないこと、電光掲示板の多くが「運休」と表示されていること、ほとんど誰も話さないこと、床に布団を敷いて眠っている人を時おり見かけること、防護服姿の人がそこかしこにいること――それらを除けば、ここは本当に、普段の上海虹橋駅と何ひとつ変わらない。私はスーツケースを押して「雷鋒(中国政府が立てた助け合いモラルモデル)サービスステーション」のそばで休んだ。隣では一、二人が食事をしていて、私も残しておいたSPAMの半分をここで食べた。それから職員に給水できる場所を尋ねると、「20A検札口の裏です」と教えてくれた。そこは、北側にみどりの窓口(以前は、虹橋駅の待合室内で身分証だけを確認し、駅に入ってから切符を買うこともできた)、南側に空き状況表示付きのトイレ、洗面台のような形をした直飲み給水機、そして給湯室がある場所だ。以前、恋人を見送るときに何度も来たことがある。ただ、閉鎖されているかもしれないと思い、念のため確認したのだった。

 ゆっくりと箱を押して向かい、2、3台の壊れた自動販売機と、2、3台の動いているものを通り過ぎ、床に布団を敷いて寝ている人たちを横目に、直飲み給水機の前に立ってボタンを押したが、一滴も出なかった。幸い、隣の給湯室はまだ稼働しており、冷水もお湯も出た。水を汲んでから、またゆっくりとホール中央へ戻った。見渡すと、防護服姿の人があちこちにいる(このとき私は「防滬服(上海人という脅威から自分の身を守る服、『防護服』と同音)」という言葉を思いついて、一人で笑ってしまった。とんだブラックジョークだ)。だが、正しく着ている人はほとんどいない。帽子も靴カバーも着けず、手袋もしない人が大半で、防護服の胴体部分だけを着て、素手でスマホを触り、荷物を触り、顔を触る。たまに靴カバーと手袋を着けている女性がいるかと思えば、帽子は着けず、艶やかな長髪をポニーテールにして、首筋から背中へと防護服の背面に濃厚接触させている。若いカップルもいた。靴カバーなし、帽子なし、手袋もせず、それどころか袖をまくり上げ、手をつないで、二重マスク越しに熱いキスを上映している。暑さに耐えられなかったのだろう、防護服の上半身をすべて脱ぎ、半袖の上半身を露わにし、下半分だけを履いている男もいた。防護服はつなぎなので、上半分が腰からだらりと垂れ下がっている。おそらく唯一正しく防護服を着ていたのは、「雷鋒サービスステーション」の女性職員だけだろう。外でワゴン販売をしている人たちは、防護服すら着ず、鉄道職員の制服(乗務員に少し似ている)にマスクだけだった。医学教育を受けた身ゆえか、私は防護服というものを「全か無か(オール・オア・ナッシング)」で捉えてしまう。つまり、どこか一箇所でも破綻していれば、それは完全に無防備なのと同じだ。だから、あの着方はどうしても受け入れがたい。彼らは本当に防護したいのか、それとも単にある種のファッションを追い求めているだけなのだろうか?

図解「防滬服」

図14 図解「防滬服」。1、普通「防護服」と呼ばれる。2、普通「アイソレーションガウン」と呼ばれる。一番左の二種類を一緒に着ているやつ:「防疫のキチガイ」と私は呼んでいる。

 私は荷物に腰掛けて30分ほど眠り、目を覚ますと、すぐそばに長い列ができていた。まもなく検札が始まる列車があるらしい。荷物をどかして壁際に移動し、また寝ようとしたが、どうにも腹が減って耐えられなかった。そこでワゴンを押していたお姉さんに声をかけ、ご飯はありますかと尋ねると、「ここにありますよ」と言って、ワゴンの下から温かい弁当を一つ取り出してくれた。アリペイで40元[40]を支払い、弁当を持って壁際に戻る。フィルムを剥がすのに二分もかかり、しかも完全には剥がれなかったが、もう構っていられない。両手で抱えて食べ始めた。

弁当

図15 40元の弁当

 梅菜扣肉(漬物と豚の角煮)弁当で、副菜は豆と鶏手羽元の煮物、漬物、茶葉たまご。肉は意外と多く、私の好きなしょっぱ辛い味だ。新鮮な野菜がない点を除けば、全体的に満足だった。40元という値段だけが少し高いが、新幹線の駅弁はもともとスーパー・ファ○キング・エクスペンシブだし、これだけ肉が入っていれば、通常でもこの価格だろう。外の食料品価格が倍々に跳ね上がる中で、駅構内の弁当価格が初心を忘れず、微動だにしない――これもまた、一種の良心価格と言えるのではないか?

 食べ終えてゴミを捨て、どうしても便意を我慢できずトイレへ向かった。そのとき初めて、私はこれまで一人でここに来たことがなかったのだと気づいた。いつも荷物を見てくれる人がそばにいたのだ。外に置いていくのも不安で、スーツケースをすべて個室に押し込んだ。用を足して戻り、また寝ようとしたところで、地元の居委会から電話がかかってきた。上海へ来た時期と理由、帰郷の理由などを聞かれ、身分証番号の先頭と戸籍地が一致しない[41]ため、出生地と戸籍地も確認され、「状況説明」を上に提出すると言われた。さらに、駅に着いたら迎えが来るが、大人数を捌く関係でかなり待つ可能性があるとも告げられた。その「かなり」という言葉を、私はこのとき深く考えなかった。電話を切り、壁際で再び眠る。やがて私の列車の検札が始まり、列に並んだ。

 検札口は、拡声器を持った係員がいないことを除けば、普段と何も変わらない。ホームの光景も同じだった。自分の車両の乗車位置に並ぶと、列車が正確に止まらず、3、4メートルずれて停車したため、人々は一斉に押し寄せ、秩序などあっけなく一瞬で消え去った。車内に入り、リュックとスーツケース一つを荷物棚へ、残る一つは足元に置いた。一等席のテーブルは前席背面ではなく肘掛け部分にあるため、支障はなかった。荷物を収め、テーブルを出し、水を飲み、充電を始める。ほどなく列車は動き出した。

[39] 「孔乙己」魯迅 1919。(井上紅梅訳)

[40] 同じ質の食事の改札外での適正価格は十数元から30元程度まで。

[41] 中国の身分証番号の先頭は、その人が初めて身分証を発行した地域の番号だ。たとえそれから戸籍地を変更しても、この番号の先頭は変更されない。

沈黙の列車

 上海で人を乗せたこの列車は、その後の停車駅(蘇州・無錫・南京・合肥)では、降りるだけで新たに乗る人はいなかった。乗車直後には、何人かが電話をかけていた。家族に無事を知らせる人もいれば、居委会に政策を問い合わせる人もいた。無錫が自宅だという人は、もう列車が走り出しているというのに、向こうの居委会が「帰ったあとどこで隔離するのか」「迎えがあるのか」すらはっきり答えられずにいた。発車後、ほとんど誰も話さなかった。音声をスピーカーで流す(中国の列車では普通)人もいなければ、子どもの騒ぐ声もない(そもそも子ども自体を見かけなかった)。大半の人が、疲れ切った身体を座席に預けて休んでいた。ときおり弁当を売りに来る乗務員は、マスクとフェイスシールドだけを着け、防護服なんぞ着ていなかった。私の記憶違いでなければ、普段の高速鉄道では、弁当売りが一車両通り過ぎても誰も相手にしないのが普通だが、このときは、平時よりも弁当を買う人が多いように感じられた。

延長精算

図16 南京から合肥までの行先延長精算をする乗務員。すべての乗務員は防護服を着用しておらず、マスクとフェイスシールドだけを着けている。

 「南京から合肥まで、延長精算します」

 「ほかに精算される方はいませんか?」

 「定食弁当、いかがですか?」

 「牛肉は売り切れました。さっきのが最後の一つでしたので、エビのほうをお持ちします。値段は同じです」

 「まもなく、南京南駅に到着します。」

 それ以外に、この車内で特筆すべき出来事は何もなかった。上海のほかのあらゆる場所と同じように、外は晴れ渡り、緑の木々が並び、子どもたちが家の前で遊び、騒いでいた。[42]

[42] 「アウシュヴィッツから報道できるニュースは無い」エイブラハム・マイケル・ローゼンタール 1958。

5月19日・南京

防疫ジョーク

公務員試験受験者諸君、次の問題を聞きなさい。

あなたは第一線の防疫担当者である。上から「他省からの来訪者は一律で引き返させよ」との通知が出ている。そこへ一人の他所者が来た。左手には48時間以内のPCR陰性証明、右手には防疫の過度な上乗せを禁止するという国からの通達、胸にはライブ配信用のカメラを装着している。彼は言う。「国の規定では、高リスクではない地域から来た者は48時間以内のPCR証明があれば自由に通行できる。通してくれ。」あなたが上司に電話で指示を仰ぐと、上司は「良しなに判断しろ」と言った。あなたはどうするか?

答え:説得する。ひたすら説得し、48時間が過ぎるまで。

入営式

 親愛なる南京よ! ついぞ私は、あなたの懐へ帰ってきた。

 夜6時半、列車は定刻どおり南京南駅のホームに滑り込んだ。そこは暗く、ひどく静まり返っていた。もしかしたら他のホームでは人の流れと高速鉄道が行き交っていたのかもしれないし、あるいはそうでもなかったのかもしれない。だが少なくとも、そのとき私の目に映ったのは、降車した全員が一列に並ぶ光景と、防護服を着て拡声器で怒鳴る駅職員だけだった。「大型荷物のない方は階段へ」。笑わせる。大きな荷物のない人間など一人もいない。誰もが大荷物だ。唯一、大きな荷物を持っていないおばあさんがいたが、彼女は車椅子だった。娘さんが後ろから押しており、エレベーターに入ろうとしたが動いておらず、職員を呼んでしばらく悪戦苦闘していた。

 私はスーツケースを押してエスカレーターを降りた。前方では人が人に押されるようにして、6、7本の長い列ができている。周囲にいる人も、前で何が行われているのか分かる人がいない。他の旅客が脇の小さなブースにいる職員に尋ねると、「自分の管轄ではないから分からない」と言われた(あとで自分の部署を言っていたが、聞き取れなかった)。辛うじて見えたのは、向かい側の別のホームから降りた人々もまた、何本もの列を作っているということだけだった。絶えず拡声器で人名を呼び上げ、ときどき「8時までに乗り換えがある人は前へ」と叫んでいた。おそらく、彼らには何らかの優遇措置が与えられるのだろう。

 中学時代、歴史の先生に見せられた映画「脱走戦線 ソビボーからの脱出」(1987)の冒頭シーンが、突然脳裏をよぎった。映画でも、人々は茫然と列車を降り、自分の未来を何一つ知らされないまま立たされていた。物語の細部はすっかり忘れてしまったが、ナチス将校の最初の一言だけは今も耳に残っている。

 「ソビボーへようこそ。ここは労働収容所だ。聖書には、労働は魂を浄化すると書かれている。そういう意味では、我々は君たちの恩人だ。」

 この言葉は2022年にはさすがに時代遅れだ。最新の専門家の名言に合わせるなら、「適度な飢餓は寿命を延ばす」となるだろう。つまり物流を断ち切った居委会や物件管理会社は、上海市民の恩人なのである。

 列はゆっっっっっくりと進んだ。家族に電話をかける人も、「南京で乗り換え中だ」と言う以上のことは何も分からないままだ。相変わらず、誰一人として前で何が行われているのか分かっていなかった。やがて私の番が来た。防護服を着て机の向こうに座る職員が手を差し出し、私の身分証を差し出すよう求め、電話番号を記録し、行き先を聞かれたので「南京・高淳区[43]」と答えた。彼はノートに目的地を書き込み、そのまま私の身分証を机の上に置いた。机の上にはすでに3n+1枚の身分証が三列に並べられていた。私は3n+2枚目だった(nは4以上の整数)。 「横で並んで待て」と指示されると、そこにはすでに複数の列ができていた。さきほど拡声器で名前を呼ばれていたのは、どうやらここに集められた人々らしい。その場の空気の重さ、光景の異様さと言ったら、今ここでタオルと石鹸を渡されて「シャワーへ行け」[44]と言われても、まったく不思議ではないと本気で思えるほどだった。職員に指示された位置に並び、後ろから人が次々とつながってくる。それでも、誰一人として「これは何をしているのか」を説明してはくれなかった。

  並んでいる最中、高淳区から迎えに来たという人から電話がかかってきた。

 「今どこにいますか?」

 「まだ外に出られていません」と答えると、

 「道理で身分証が見つからないわけだ」

 と彼が言った。名前を呼ばれた人が一人ずつ前に出て整列し、十人集まるごとに出発していく。先頭に一人、後ろに一人「押さえ役」(職員原語)をつけて、常時開放されている改札口から外へ連れて行かれて、行き先は分からないまま。ときどき十人に満たない隊列もあった。身分証を持たない子どもや外国籍の人たちだ。外国人は自力で移動できるが、子どもはそうはいかず、必ず保護者が付き添う必要がある。少なくとも、子どもと親を引き離すほどではないらしい。名前を呼ぶ作業も順調ではなかった。こちらで呼ばれた名前の当人が、別のホーム下のエリアに並んでいることもあり、その場合は長い距離を歩いて合流しなければならない。しかも名前を呼ぶ係は難読漢字に弱く、何人もの名前を読み間違え、最後には隣の防護服の職員を呼んで助けを求めていた。私の後に並んだ人たちは次々と呼ばれていき、ここが二、三十人ほどに減った頃、ようやく私の名前が呼ばれた。隊列の最後尾につき、ほどなくして改札口へ向かった。それでも、何をされるのかは依然として分からなかった。

 列はのろのろと進み、改札を抜けて数歩で止まった。前方には、人が密集しているらしい場所から影がぼんやりと、そこで集団的濃厚接触活動が行われているのが見えた。通路は鉄柵で囲われ、左には「上海来寧人員専用通路」、右には「PCR結果不所持者専用通路」と書かれた看板があった。他の出口のスピーカーでは、「蘇康碼(江蘇省の『健康コード』)」と48時間以内PCR結果の提示を求め、持っていない者は「不所持者専用通路」でその場で検体採取をしてから進めと言っている。すぐそばの巨大な柱には、不動産と観光の広告がきらびやかに貼られていた。――不動産と観光(笑)。私たちの列も、ここでさらに五分ほど待たされて、やはり、何をしているのかを説明してくれる人はいなかった。

 しばらくして、私たちの列は斜めにその密集エリアを横切り、その奥へ進んだ。右側には感情的になっている人々がいた。別の改札口から来た、低リスク地域から来たが48時間以内PCRを持たない人たちらしい。話を聞く限りすでに一時間ほど待たされており、職員に「いつ終わるんだ」と詰め寄っていた。左側には机がいくつか並び、その後ろに防護服姿の人が座っていた。机の上にはLEDスタンドが置かれ、書類作業をしているようだった。脇の看板には「ここではPCR検査はしない」とある。奥へ進んだところで、職員が「南京が終着駅の人は一番端の列へ、乗り換えの人は別の列へ」と指示した。私は一番端の列に並んだ。進みは非常に遅く、一、二分ごとに数人が机の前へ進んで職員と話すが、相変わらず、何をしているのかは分からない。

 隣の二列は乗り換え組だった。ある職員が走ってきて、右側の列の先頭の名前を聞き、机のところでしばらく探したあと戻ってきて言った。

 「あなたの身分証、見つかりません」

 次に左側の列の先頭の名前を聞くと、今度はすぐ見つかり、その列だけが先に進んだ。右側の人たちは激怒した。ここでようやく分かった。最初に集められた身分証はここにあり、どの列がどのグループかを判別する方法は、「先頭の人の身分証の名前を見る」だけだったのだ。これ以上に分かりやすく効率的な方法が思いつかなかったのか、それとも本当にこれが最善だったのか——そんなことを考えていると、かすかに誰かが私の名前を呼ぶのが聞こえた。頭を上げ耳を澄まして聞くとやっぱりそうだったらしく、私は急いで呼んだ人の前の机へ行った。

 「電話したけど出なかったよ」

 確かに着信には気づかなかったが、彼が高淳区から迎えに来た人だと分かった。私は書類に署名し、迎えの人も署名して目的地「高淳」と記入した。彼は私の身分証を受け取り、奥の壁際へ案内した。そこにはすでに、男女一人ずつがスーツケースに腰掛けて待っていた。そのときも私は、他の人たちがこの先どうなるのか、結局分からないままだった。

[43] 高淳区とは、南京市中心部より南、約100キロ離れた小さな町。水産(カニ)養殖と観光業が盛んで、平時なら南京から市営地下鉄で1時間半ほどで行ける。

[44] 「脱走戦線 ソビボーからの脱出」の映画のシーンで、ナチス将校がユダヤ人を殺人ガス室に入れる前に、「これからシャワーに入れ」と告げていた。

保税輸送

 迎えに来た人は私を壁際に連れて行き、二枚の用紙に記入するよう言った。居住地の団地名を聞かれ、私の身分証、「蘇康碼」、「行程カード」[45]を写真に撮られたあと、私と、あの男女二人を連れて、合わせて三人で駅ホールを出て、高淳区から派遣された車を探しに行った。私が記入している最中、あの女性が、私のスーツケースに挟んであった「離滬証明」(どちらだったかは忘れた)に気づき、夫に向かって「見て、彼の離滬証明はこんな感じよ」と言った。私は書類ケースを外し、裏返してもう一枚の「離滬証明」を彼女に見せた。彼女は「これはうちも持ってる」と言ったので、どうやら私の「離滬証明」は彼らより一枚多かったらしい。

 それほど長くも短くもない距離を歩き、隅に停まっていた七人乗りのワゴン車のところへ着いた。係員はまずトランクを開けて荷物を積ませ、それから車のドアに貼ってあるQRコードを読み取るよう指示した(おそらく噂に聞く「場所コード」だろう。読み取ると、私のスマホ画面には「場所:蘇A○○○○○号自動車、南京市高淳区に所在」と表示された)。読み取りが終わると、係員は私たちのスマホ画面をスマホで撮影した。若い夫婦には七人乗りの一番後ろの席に座るよう指示され、私は中央列の左側に座った。乗り込んでから気づいたが、中央列の右側にはすでに人がいて、四、五十代に見えるおじさんだった。

 車内は、運転席・助手席と後部座席との間が、ベージュ色の板(材質は分からないが、車内でよく見かけるあのベージュ色とまったく同じ色だった)で完全に仕切られており、ガムテープのようなもので何重にも固定されていた。これがいわゆる「クローズループ輸送」なのだろう。車内では運転席側の音は一切聞こえず(あるいは、そもそも何も音を立てていなかったのかもしれない)、後ろに座る四人は勝手に雑談していただけだった。それ以外は、ごく普通の七人乗りワゴン車と変わらない。高速道路を走り、どれくらいの時間走ったのかは気にしていなかったが、話をしているうちに、車窓の風景が次第に見覚えのあるものに変わっていった。

 車はある敷地の大きな鉄門の前で止まった。門の脇には「防疫重地につき、うろつき禁止」と大書されている。この前に同行者から、目的地は「高淳開発区職員マンション」だと聞いていた。運転手が門番とやり取りをしたが、事前の情報共有がうまくいっていなかったのか、門番は少し逡巡し、トランシーバーで上司に確認を取った。上司が「そのまま入れてよい」と言い、ようやく門が開いた。運転手は私たち一人一人に新しいマスクを配り、ドアを閉めて車を敷地内へと進めた。

[45] 行程カードとは、「通信ビッグデータ旅程カード」というスマホアプリのこと。SIMカードがどこの基地局に繋がったのかの情報を通信業者が集めて解析し、そのSIMカードの持ち主が過去14日内どこにいたのかを画面に表示するもの。

当時は「健康コード」が緑、かつ「行程カード」に「高リスク地域」が無い人でなければ、外出が認められるチャンスはほぼない(もっとも、そうである人も必ずしも外出が認められるわけではないが)。

ただ、私みたいな携帯電話番号を2つ以上保有している人にとっては、「行程カード」は用をなさない。

四人の目に映る三つの上海

 南京南駅から高淳へ戻る車中で、私は初めて「逃滬」の仲間たちとじっくり話す機会を得た。ワゴン車に乗る前、あの女性が「どうやって虹橋まで行ったの?」と聞いてきたので、私は歩いて行って、途中で電動バイクに乗せてもらったと答えた。すると彼女は、夫と二人で浦東(上海の東側全体。浦東空港のことではない)から出発し、15元の「保障バス」に乗ったと言う。そんなものがあるとは私は初耳だった。彼らはまずスーツケースを引きずりながら5キロ歩いた(私が家を出てから虹橋の進站口まで実際に自分の足で歩いた距離は約4.5キロなので、彼らのほうが私より多く歩いている)、その後ある停留所に着き、そこからバスで直接虹橋まで行ったらしい。彼女はさらに、なぜタクシーを呼ばなかったのかと聞いてきたが、私は「そもそも全然つかまらない」と説明するしかなかった。そして車に乗り込んでから、上海の貧富の差はよりはっきりと姿を現し始めた。

 私の右隣に座っていたおじさんは、典型的な封鎖期間における貴族だった。上海大潤発(RT-Mart)本社に20年以上勤めており、ロックダウン中の生活はまさに歌い踊る太平の世だった。寮、食堂、浴場、オフィスがすべて一棟の建物の中にあり、朝起きたら下に降りて食事、上に戻って仕事、夜はまた下に降りて食事、さらに下で入浴し、最後に上に戻って寝る。生活物資に困ったことは一度もなく、食堂のメニューは豊富で、外の人間が朝五時から手が痛くなるまで奪い合っても手に入らないような「いい食材」を、彼らは食堂で食べ飽きるほど食べていた――大潤発ほどの小売業大手が、上海で手に入らないものなどあるだろうか。PCR検査も、近くの街道弁公室[46]から職員が彼らの敷地の門まで来て、誰も外に出ることなく、検査が終わればまた仕事に戻るだけだった。彼はそもそも家に帰るために逃げ出したのではなく、「外に出て消星[47]し」てから出張に行くために来たのだという。切符は会社が手配し、駅までの車も会社が用意した。戻ってから14日間隔離し、その後は上海に戻らず直接ほかの都市の大潤発支社へ業務調査に行く。「そうでなければ、わざわざこんな面倒なことして外に出たりしないよ」と彼は言った。

 一方、その若い夫婦はまったく正反対の極みにいた。彼らは浦東のある団地に住んでおり、経験すべきことも、人間が経験しなくてもいいようなことも、すべて経験した。本来は三月末に南京での仕事が決まり、上海を離れる予定だったため、「一週間分の食料しか買っていなかった」。ところが突然封鎖され、2ヶ月間家に閉じ込められ、毎日一食だけの生活を2ヶ月続けることになった。「今なら、1950年代の大飢饉のときに人が木の皮を食べた理由が分かる。腹が本当に限界になると、あれは本当に、何というか、胃から食道にかけて、炎が一気に駆け上がってくる感じがする」。彼らの団地が食料を配給したのは合わせて二回だけだったが、PCRと抗原検査だけは誰よりも熱心で、「一時期は毎日PCRをやって、十数日連続だった」。抗原に至ってはほぼ毎日で、「午前中にPCRをやったばかりなのに、夜9時にまた抗原をやれってチャットグループで言われた」こともあった。ただ、抗原検査にいったい意味があるかどうかは皆分かっているし、居委会がこれほど熱心に抗原キットを仕入れる理由も、大人の皆は分かっている。

 立場の違いゆえだろう、自分以外の上海市民が被った苦難に対する認識にも、大きな隔たりがあった。若い夫婦の周囲では、想像できるあらゆることが起きていた。物資が配られないのは日常茶飯事で、より鮮明にこの世の中を描き表したのは、90歳を超え自力で歩けないおばあさんが発熱したケースだった。おばあさんは家族と同居しており、熱が出てから家族全員が家に閉じ込められた。病院に行くにはPCR検査が必要だが、本人は外に出て検査を受けられない。「3、4日間連絡し続けても、誰も家まで来てはくれなかった」。近所の人たちは、家にあるマスクやアルコール消毒液などを分け与えた。それが何の役に立てるかは定かではないが、せめてもの思いやりの気持ちにはなったのだろう。数日後、「ようやく人が来てPCR検体採取をしてくれた」ことで話は終わった。その後どうなったかは、私は聞かなかったし、彼女も語らなかった。三、四月はちょうど引っ越しシーズンだが、彼らが借りていたのは「二房東」(転貸者)の物件で、その「二房東」自身も別の物件を借りて二重に家賃を払っていた。結果として彼らはさらに二か月近く住み続けることになり、「大家の負担を少し軽くしてあげた形になった」。一方で、「もっと悲惨な人は、自分だけで二重に家賃を払う羽目になった」。

 一方、国営ニュース番組の世界を生きているおじさんは、見事なカメレオン[48]ぶりを発揮した。最初に若い夫婦が「一週間分の食料しか買っていなかった」と聞くや、彼は若者は経験不足で、愚かで、政府を信じすぎだと嘲笑した。ところが一日一食の話や、団地が物資を配らなかった話になると、今度はまったく違う反応を見せた。「本当にそんなことがあるのか? 嘘じゃないだろうな?」。これには女性が激しく憤った。自分が実際に体験したことを疑われれば、気分がいいはずがない。私含む三人の若者が完全に声をそろえたのは、彼女が「二房東」の家賃負担の話をしたときに、おじさんがまたこう言った瞬間だった。「え、ここ2ヶ月は家賃の減免を申請できるってニュース言ってたじゃないか?」。一同はこの時どっと笑い出し、車の内外はとても晴れやかな空気になった。[49]彼女の夫は、おじさんの年齢と人生経験そのものに疑問を呈し、「おめでたいな」という六文字が顔に書いてあるかのようだった。家賃減免ができるのは国有企業名義の物件を借りている場合だけだ。出稼ぎ労働者が上海で借りる部屋で、誰が国有企業の物件なんか借りている? 個人の大家だって自分でいっぱいいっぱいだ。誰が他人の苦境なんて気にする暇があるものか。話が白熱すると、女性は私のほうを向いて「あなた、たぶん抖音(ティックトック)よく見てるでしょ」と言った。私はその点では彼女を失望させたが、少なくとも彼女の語ったことはすべて理解できた。朋友圈[50]を席巻した「四月の声」は断じて海外反中勢力の思想作戦の陰謀などではないし、おじさんがまだ「中央から派遣された総理が大鉈を振るって上海の乱を正す」と夢見ているころには、屋上の孫おばさんの名演技[51]はすでに抖音を通じて上海の家々に広まっていたのだ。

[46] 街道弁公室とは、区よりも小さい地域を管轄する政府機関。中国語で言う街道は都市間の幹線道路ではなく、都市内部の道のこと。

[47] たぶん、おそらく「行程カード」に表示される過去14日以内に上海を訪問した記録を消すことを指しているかもしれないと推測される。「行程カード」に表示される訪問地域に高リスク地域があれば、その地域名だけアスタリスク「*」(「星」)が表示されることから。

彼はこの言葉を何度も何度も繰り返していたが、一度も説明はしなかった。まさか皆が皆でそんなことを理解できているとでも思っているわけではないだろうね?

[48] 「カメレオン」アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ 1884。

[49] 「孔乙己」魯迅 1919。(井上紅梅訳)

[50] 朋友圈とは、WeChat附属の友人限定インスタグラムみたいな機能。

[51] 当時の中国国家副総理・孫春蘭氏が、上海を視察して封鎖期間中の防疫対策の監督・指導を行った。孫氏が地域コミュニティの実情調査に深く関与している様子を伝えるはずだったテレビの生中継が、実際には集合住宅の屋上で演出されたヤラセ映像であったことが発覚した。この出来事は、抖音(ティックトック)などのソーシャルメディア上で広く拡散された。

一憂一喜

 車は敷地内に入り、ひとつ角を曲がって停車した。私たちは新しいマスクに付け替えて下車し、それぞれの荷物を階段の段差の上に置き、「消殺」(消毒殺菌)を受けるよう指示された。いわゆる消殺とは、消毒液をミストキャノン(大砲みたいな形の加湿器)のような器具に入れて霧状に噴霧するだけのもので、1分ほど吹きかけて終わり。拭き取ることも、他に何かするわけでもない。「消殺」が終わると、荷物を持って建物の中へ入り、エレベーターの前へ行った。そこで一人一人に、赤い紙に印刷された入居規定が配られ、そこには各人の名前と部屋番号が書かれていた。このとき、あのおじさんがスタッフに一言聞いた。

 「この二人は夫婦なんですが、一緒の部屋に住めませんか?」

 答えは当然ながら「できません」だったし、そもそもこの質問自体が、彼の世間知らずさを改めて示しているように私には思えた。

 紙を受け取った瞬間、私たちは一斉に緊張と困惑に包まれた。私はもともと自己負担の隔離を覚悟して帰ってきたのだが、車内での会話では、複数の情報源から「南京市中心部の各区は有料だが、高淳の隔離は無料だ」という話を聞いていた。ところがこの紙には、どう見ても「300元/人/日」と読める記載がある。書き方が少しおかしい気もしたが、ここまで来てしまった以上、どうなるかは彼らの言いなりだ。

 エレベーターに乗り、9階で降りると、スタッフがすぐに私の部屋を指で示してくれた。中に入って荷物を置き、室内設備を一通り確認し、丸一日汗をかいた服を脱いでいると、外からノックの音がした。防護服を着たスタッフが、まず私の鼻に綿棒を突っ込み、その後スマホを取り出してグループチャットに参加するためのQRコードを読み取らせ、最後に「ご飯は食べましたか」と聞いてきた。食べていないと答えると、カップ麺を一つくれた(この時すでに夜8時半を過ぎており、夕食提供の時間はとっくに終わっていた)。ドアに鍵をかけ、お湯を沸かし、親戚や友人たちに無事を知らせた後、グループ内で質問を始めた。私が一番気になっていたのは、当然「隔離は自己負担なのか」という点だった。するとすぐに誰かが答えてくれた。

 「集中隔離期間中はすべて無料です。」

 胸にのしかかっていた大きな石が、ようやく落ちた気がした。私は腰を下ろし、配られた入居規定の文面を修正し始めた。

隔离期間中の規定

画像:文章が印刷されている紙に、文法などを修正しているコメントがいくつか手書きされている。

図17 みんなで間違い探し

 修正を終え、家族や友人と雑談をして、麺を食べ、シャワーを浴び、私はベッドに横たわった。5月に入って初めての、エスタゾラム錠に頼らない、上質な眠りだった。27時間に及ぶ放浪と流離を経て、私はようやく魔幻(ファンタジー)の上海を離れ、甘美な家に帰ってきたのだ。だが、それがどうしたというのだろう。ここもまた上海と同じく、予測が効かない場所に変わりはない。この世界で唯一予測できることがあるとすれば、それはこの世界が常に予測が効かないということだ。この世界はこれからも、予測不能であり続けることに間違いない。

後日談

 上海から逃げ出す旅はここで終わるが、この物語自体はまだ終わっていない。総じて言えば、その後の生活はとても気楽で快適なものだったが、その「気楽さ」の中にも、いくつかの小さな挿話は混じり込んでいた。

 自然で上質な睡眠を満喫していた私は、翌朝、朝食とPCR検査という二度のノックで目を覚ました。自分の体が「二度寝する能力」を取り戻していることに驚きつつも、三度目はさすがに許されなかった。無情にも鳴り響いたスマホによって、昼過ぎまで爆睡するという夢は打ち砕かれた。電話は、高淳区で私が住んでいる地域の街道弁公室からで、「戻ってきたとき、どの居委会に報告しましたか」と聞かれた。なぜそんなことを今さら聞くのか、私は理解できなかった。居委会がすでに上に報告しているのではなかったのか?

 この日は合計で三本の電話を受けた。これはその一つ目で、そして最も首をかしげた電話だった。次の電話はそれほど奇妙ではなく、最後の一本は「まあ、そうだろうな」と思えるものだった。私のもう一台の携帯電話(こちらは一度も報告や健康コード登録に使ったことがない)に、居住地の居委会から電話があり、「上海から戻ってきましたか」と尋ねられた。私はもう一つの電話番号を伝え、データを統合してもらうよう頼み、それで話は終わった。この電話が上海帰りだと把握されていたこと自体には何の疑問もない。ただ、それが管轄範囲の広い上級部門ではなく、ちょうど私の住んでいる場所の居委会から直接かかってきた理由は、最後まで分からなかった。

 最後の電話は、別の居委会からだった。そこは2020年の上半期に住んでいた場所で、私はとっくに引っ越している。それでも、外からこの町に戻るたびに、必ずそこから電話がかかってくる。理由を尋ねると、「公安から情報が送られてくるんです」との答えだった。奇妙なことに、私の戸籍地は一度もそこになったことがない。大学時代は大学の寮で、卒業後は直接、今住んでいる場所に移している。それでも私は、この件を役所の硬直性と低効率のせいだと考えることにした。どうせそんな理由をつけてしまえば、何でもかんでも説明がつくような気がした。

 27時間に及ぶ逃避行は、私の身体にもそれなりの影響を残した。ただ、遠慮なく言わせてもらえば、最後の1時間で受けたダメージは、それまでの26時間分を上回っていた。翌朝起きると、両手のひらが赤く腫れ、ヒリヒリと痛んでいる。すぐに原因が分かった――昨晩、荷物に施された「消殺」のせいだ。部屋に戻ってすぐ手を洗い、シャワーも浴びたが、どうやら「手」遅れだったらしい。さらに一日が過ぎてから、最初の26時間が身体にじわじわと与えた影響がようやく一気に表に出てきた。腰が痛くて動けなくなったのだ。こればかりは仕方がない。背負っていたあのリュックが、あまりにも重すぎたのだから。

 集中隔離期間中、私は合計で9回PCR検査を受けた。最初の7回は鼻と喉を交互に、最後は同時に喉と鼻を2本の綿棒で突かれて合わせて2回だ。最後の検査を終え、「集中医学観察解除通知書」に署名した翌日、朝9時の検査はなく、「帰宅してよい」と通知された。私と、もう一人の男性と一人の女性、計3人で転送車に乗った。転送車とは言うものの、実際は軽トラックを改造したもので、荷台の三方は青い鉄板と灰色の鉄パイプで囲われており、後ろから乗り込む。いかにも小さな田舎町らしい風情だった。降車後、去っていく車を眺めていると、車体の側面にかすかに「城管」[52]の二文字が見えた。

 予想できていなかったのは、家に帰ってからもなお、上海の悪夢が私につきまとい続けた[53]ことだ。6月になっても、私は上海の夢でうなされていた。はっきり覚えているだけでも二度ある。一度目は、なぜか南京から再び上海へ行ってしまい、そこから戻ろうとしたところ、帰るにもまた14日間の隔離が必要だと分かる夢だった。途方に暮れ、私はとりあえずスーパーに入り、何か食べ物を手に入れようとする――行く先も分からぬまま。二度目は、上海から逃げ帰る際にタクシーを捕まえ、すでに上海虹橋駅まで送ってもらったのに、そこで出国ビザを持っていないことに気づき、運転手に頼んで取りに戻る夢だった。出国ビザを見つけて団地の門まで戻ると、あのタクシーはすでに影も形もなかった。

[52] 城管とは、都市管理総合執行局、または似たような名前の政府機関。未申告の露店や違法駐輪などの都市景観に影響を与える軽微な違法行為を取り締まっている。

[53] 余談だが、今になっても、毎年4~5月ごろは上海の夢を見ている。

二〇二二年六月 作

逃滬紀元四年十二月 訳

Tianjian.Hu

Record of my genius ideas and mental disorders.
📡 RSS Feed
Latest 10 items

2025-12 出上海記(日本語訳)

2025-12 引っ越し随筆

2025-11 A Trip on the California Zephyr Sleeper Train

2025-09 美铁5次“加州微风”号列车旅行记

2025-09 寝台特急そよかぜカリフォルニア旅行記

2024-09 外国人初来日チェックリスト 日本語ぺらぺらの人用

2024-05 Computer troubleshooting series #4: Remove devices from Windows 10 "Cast to Device" right-click menu

2024-02 Be a water thief: Hacking the dormitory water boiler in a top 20 university in China

2024-01 Exodos Shanghainus - Escaping from Shanghai during 2022 COVID lockdown

2024-01 Computer troubleshooting series #3: trouble with scroll wheel in a Microsoft Bluetooth Mouse